あにろっくのブログ

誰かの明日への生きる力になれたらと思います。いやまじめか!

『ONE PEACE FILM RED』ネタバレ【編集して再掲】

昨夜(2022.08.06)レイトショーで『ONE PEACE FILM RED』(以下、『RED』と省略する。)を観てきた。これから書く内容は、『RED』の内容を僕自身が感じた意見や感想を、正直に書いていくので、ネタバレを回避したい方は読まないでくださいね。

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結論から言うと、シャンクス推しのファンなら観るべき映画であるということ。ワンピースファンでもこの映画は「好き」と「嫌い」に分かれるのではないだろうか?というのも、『ワンピース』にアーティストのAdoがやってきたという世界観だからだ。内容のラストスパートの辺りで、魔王との戦闘シーンがあるのだが、そのシーンは漫画ファンも思わず唸(うな)る部分である。なぜなら、ビックマムが登場してくるのにもかかわらず、ルフィのギア5が少しだけ見られるからだ。ギア5はシャンクスとの共闘でわずかに見られるのだが、シャンクスの覚醒?のような姿も興奮した。シャンクスの娘という、元赤髪海賊団の船員UTA(ウタ)が劇中に歌う曲が6曲くらいあるのだが、一発目に歌う『新時代』は『RED』で聴くのがふさわしく、ウタのために作られた曲である。劇中歌のなかでもVaundyというアーティストが提供した曲『逆光』はAdoの魅力を引き出していたように感じられた。
『RED』の中ではカタクリも出てくる。チョイ役だが、相変わらず妹思いの優しいお兄ちゃんは良かった。コビーの統率力にも目を見張るものがあり、引き続きルフィとどんな絡みになってくるのか気になった。あ、ヘルメッポも。海軍の黄猿や藤虎、天竜人のチャルロス聖も海賊との関係性を際立たせてくれた。個人的にはやはり、赤髪海賊団の共闘のシーンで、ウソップとヤソップの親子共闘(共演)は胸アツ。そうそう、バリバリの実の能力者、バルトロメオが出てくるのだが、まさかあの絶対に破れないバリアが破られるとは思いもしなかった。原作者の尾田さんが絶対はないということを証明してくれたのかもしれない。辛口で申し訳ないが、今までのこのところぱっとしないワンピースの映画だったが、尾田さんが総監督ということもあって、作画も良かったし、特にキャラのアップやシリアスな場面ではなおさら、土台や骨組みがしっかりしていた映画だった。しかしながら、連載25年ということもあり、客に飽きさせないというのは無理なことである。『RED』の中でもそういったアイディアや工夫が随所に見られる。全体としては残念な印象ではあるが、普段は見られないシャンクスの姿が拝めたのは、原作の今後の展開を盛り上げてくれることには間違いないだろう。エンドロールの背景には、懐かしいキャラクターが次々と出てくるので、やはり最後まで見てほしい。お金を出して見るか見ないかで行ったら何度も言うように、シャンクス推しなら見るべきだ、といっておこう。

遠距離ふうふ2

40代後半で20年以上勤めていた会社を退職した。妻は何も言わなかった。というか、何も言えなかったのかもしれない。それから仕事が決まって、単身赴任の身となった。どうなるものかと思ったが、一緒に生活していた頃よりもふうふ関係は円満である。理由としては、気にしなくて(見られなくて)いいので、ストレスフリーであること。どうしても私の性格が細かい(妻は気にしない)ので、彼女の洗濯物の畳み方や干し方にはイライラする。私は洗濯物をハンガーに掛け、握りこぶし1つ分の間隔をあけて干す。洗濯物を取り込んだら、それらを洋服屋の店員のような手さばきで、きれいに畳んでタンスに仕舞う。彼女といったら干しっぱなしで、乾いたらハンガーに掛かってあるものを着ていく。タンスに仕舞うのは、シワが付くからという理由で、タンスに入っている服を着ていくことは滅多に無い。だから、物干し竿の洗濯物は増えていく一方で、新規の洗濯物を干す場所が無くなっていく。私の場合乾いた服はどんどん畳んでいって、家族一人ひとりまとめて置いていく。コンビニの品出し(賞味期限の古いものを前に置く)みたいに新しい洗濯物は下に重ねていく。お互い少しずつイライラが積み重なって、それらがピークに達すると大喧嘩に発展するのがお決まりのパターン。しょせん彼女(私)はお互い、育ってきた環境が違うから、と鼻歌で最後は自分を納得させるしかないのである。

それがどうだろう、一ヶ月も会わないでいると、妻に会いたくて仕方がないのである。それはあたかも恋人時代に戻ったかのように。よその夫婦関係にどうこう言うつもりは無いが、親友の一人は職場の若い女と不倫をしている。もう一人は2年間セックスレスで会話も無い。もう一人は夫婦円満だが定期的に風俗を利用している。私は妻が初めて関係を持った女性だ。男子校だった事も手伝って、女性に免疫が無かった。少しでも目が合ったり、話しかけられると好きになってしまうし、ボディタッチされたあかつきには「俺に惚れてるな」と勘違いしてしまう。妻は覚えていないかもしれないが、アプローチしてきたのは彼女のほうだ。おそらく。というのは、これは男性特有の勘違いも甚だしいというもので、女性に優しくされたり、気にかけてもらえるだけで好きになってしまうやろである。おそらく妻もその時は好きという感情は微塵も無かったと思う。大学に合格したときに妻からハガキが届くのである。当時はポケットベルが全盛時代でその翌年にPHSが流行するのであるが。私の番号を知らないためハガキを送ってくれたのである。内容は合格おめでとうと東京で遊ぼうと彼女のポケベル番号と彼女のプリントシール(通称プリクラ)が貼られていたのである。「へ?なんで」とその時は思ったのだが、大学で上京したときに最初に会ったのが彼女(現在の妻)である。

きみとこのまま3

「私はひとりでは生きられない。そう悟って、大学卒業と同時に結婚した」そう言えたのなら、格好はつくのだが、いわゆる授かり婚だ。彼女と付き合って4年目、1泊2日の旅行で、宿泊先の温泉旅館で2人は結ばれた。後先を考えなかった20代前半、その夜、布団の上で彼女と繋がっているときに、私はこの人と生涯を共にするのだな、と確信した。3か月経った頃だろうか、彼女から「妊娠したみたい」と言われた。妊娠を告げられた直後は、結婚がどういうものか、まったく考えていなかった。数週間後、彼女の家族と自分の家族に、彼女が妊娠したことと結婚したい、という旨を報告しに行くこととなった。

報告する当日、スーツに着替え彼女の家に到着する。玄関で挨拶をしたあと彼女の母親に居間へ通される。ホームドラマのように、彼女の父親が座ってテレビを観ている。彼女の父親がテレビを消しこちらに顔を向ける。居間に彼女の姉と祖母も現れ、私たちを見守る。私が「結婚させてください」と言ったら、彼女の父親が「娘を嫁がせるのか、あんたが婿養子に入るのかどっちだ」と訊いてきた。その時は「婿養子には入らないです」と返したが、いま彼女の父親くらいの年齢になって気が付いたのは、彼女の父親なりの冗談だったのではないかということ。彼女の父親は若かりし頃、暴走族のリーダーだった。夜な夜なバイクを乗り回し仲間を引き連れていた過去がある。そのことは結婚してから彼女の父親の姉に聞かされるのだが、硬派だった彼女の父親からすれば、軟派な私をどう思っていたのかは今となっては聞くことができない。それでも彼女の父親とはなんとなく波長が合った。酒が大好きな人だった。私が彼女の実家を訪ねるたびに宴となる。私も酒が好きなので彼女の父親は、プレミアのついた焼酎や清酒を取り寄せては飲ませてくれた。そんな兄のような彼女の父親。義理の父親だったが50代で癌が見つかった。ステージ4だった。見つかって半年でこの世を去ってしまった。癌と判明するほんの少し前の夏、庭で一緒に焼き肉を食べていたのだが、その時に喉の不調を訴えていた。まさか癌だったとは思いもよらなかった。それまで身内で癌になった人がいなかったので、本やネットで癌について調べたのはその時が初めてだった。亡くなる少し前に彼女の父親に子どもを預かってもらっていたので、挨拶しようと思ったが捜しても見当たらない。仕方がないので挨拶をしないで帰った。その後電話がかかってきて「挨拶もしないで帰るとは何事だ」と言って叱られたのが最後の言葉だった。最後くらい笑ってお別れしたかったが、最後に会ったのは自宅のベッドで呼吸をしているだけの状態だった。私より背が高くがっちりとした身体はやせ細り、もう骨と皮だけの姿になっていた。私が両手で右手を握ると温かかったが二度と目を開けることはなかった。

お義父さんと呼ばせてもらってから亡くなるまでの15年間、私の子供たちをとても可愛がってくれた。お義父さんは初孫の誕生にとても喜んでいた。特に娘にはメロメロで可愛がってくれたし、息子の誕生をとても喜んだ。なぜならお義父さんには息子がいないからだ。暴走族のリーダーは最期、孫たちにとっては優しくて何でも買ってくれる最高のおじいちゃんだった。65歳、「高齢者」と呼ばれる前に亡くなった。最期まで格好をつけたまま逝ってしまうなんて、彼らしい終わりだった。お義母さんは涙が枯れるまで泣き続けた。昔、看護師であったお義母さんはお義父さんの最期をその腕の中で看取ることができた。私は癌で死ぬのも悪くないと思った。なぜなら癌は余命がわかるから。事故やその他の病気では死に目に会うのは難しい。お義父さんとお義母さんは病院で知り合った。バイク事故で入院し看護師のお義母さんに一目惚れ。純愛だったそうだ。当時の悪友が葬式で話していたのを聞いた。喧嘩の絶えない夫婦で、殴られることもあったお義母さん。とにかく酒が大好きでお義母さんに面倒なことばかりかけていたお義父さん。出会いも別れもベッドの上だった。

妻はそんな義父の性格をそのまま受け継いだのではないかと思うくらいに豪快でわがままである。彼女は活発で中学で一緒にハンドボールをしていた。ショートカットで色黒で当時は私より背が高く頭も良かった。そんな彼女とは中学時代あまり会話をしたことがなかった。私には他に好きな人がいたからだ。中学を卒業して高校に入ってから、その好きな人と付き合うことができた。別々の高校になってお互いハンドボールをやっていたので、毎日練習でデートどころではなかった。市の大会で会うことができたくらいだろうか。次第に気持ちが離れていき、破局を迎えた。一方、今の妻も別の強豪校でハンドボールを続けていたので大会で遠くから見てはいた。しかしその時は全く彼女に興味は湧かなかったのである。じゃあどこで、どのタイミングで付き合うことになるのかはまだ後の話。高校1年のときにハンドボールでレギュラーとなり、先輩たちのおかげと運もあって県大会で優勝し、東北大会で準優勝し全国大会へ出場となった。全国大会では横浜の強豪校と対戦しトリプルスコアをつけられ、初戦で敗退となった。彼女(現在の妻)の方も全国大会に出場した。旅館が一緒で、宴会場で彼女の高校と一緒に朝飯と夕飯を食べた。同じ部活の男子校と女子校の唯一の接点といっても過言ではない。互いに異性の目を気にしながらの食事。その時私は、彼女のひとつ上の先輩が好みのタイプだったので、先輩しか見ていなかった。食事後、タコ部屋で男子どもが雑魚寝しながらやれ覗きに行こうだの、誰が好みかだの男子校生は四六時中、(少なくとも私の周りの男子は)女子のことを考えていて、妄想を膨らませているのである。

遠距離ふうふ

40代後半で20年以上勤めていた会社を退職した。妻は何も言わなかった。というか、何も言えなかったのかもしれない。それから仕事が決まって、単身赴任の身となった。どうなるものかと思ったが、一緒に生活していた頃よりもふうふ関係は円満である。理由としては、気にしなくて(見られなくて)いいので、ストレスフリーであること。どうしても私の性格が細かい(妻は気にしない)ので、彼女の洗濯物の畳み方や干し方にはイライラする。私は洗濯物をハンガーに掛け、握りこぶし1つ分の間隔をあけて干す。洗濯物を取り込んだら、それらを洋服屋の店員のような手さばきで、きれいに畳んでタンスに仕舞う。彼女といったら干しっぱなしで、乾いたらハンガーに掛かってあるものを着ていく。タンスに仕舞うのは、シワが付くからという理由で、タンスに入っている服を着ていくことは滅多に無い。だから、物干し竿の洗濯物は増えていく一方で、新規の洗濯物を干す場所が無くなっていく。私の場合乾いた服はどんどん畳んでいって、家族一人ひとりまとめて置いていく。コンビニの品出し(賞味期限の古いものを前に置く)みたいに新しい洗濯物は下に重ねていく。イライラがピークに達すると大喧嘩に発展するのがお決まりのパターン。しょせん彼女(私)はお互い、育ってきた環境が違うから、と鼻歌で最後は自分を納得させるしかないのである。

きみとこのまま2

「私はひとりでは生きられない。そう悟って、大学卒業と同時に結婚した」そう言えたのなら、格好はつくのだが、いわゆる授かり婚だ。彼女と付き合って4年目、1泊2日の旅行で、宿泊先の温泉旅館で2人は結ばれた。後先を考えなかった20代前半、その夜、布団の上で彼女と繋がっているときに、私はこの人と生涯を共にするのだな、と確信した。3か月経った頃だろうか、彼女から「妊娠したみたい」と言われた。妊娠を告げられた直後は、結婚がどういうものか、まったく考えていなかった。数週間後、彼女の家族と自分の家族に、彼女が妊娠したことと結婚したい、という旨を報告しに行くこととなった。

報告する当日、スーツに着替え彼女の家に到着する。玄関で挨拶をしたあと彼女の母親に居間へ通される。ホームドラマのように、彼女の父親が座ってテレビを観ている。彼女の父親がテレビを消しこちらに顔を向ける。居間に彼女の姉と祖母も現れ、私たちを見守る。私が「結婚させてください」と言ったら、彼女の父親が「娘を嫁がせるのか、あんたが婿養子に入るのかどっちだ」と訊いてきた。その時は「婿養子には入らないです」と返したが、いま彼女の父親くらいの年齢になって気が付いたのは、彼女の父親なりの冗談だったのではないかということ。彼女の父親は若かりし頃、暴走族のリーダーだった。夜な夜なバイクを乗り回し仲間を引き連れていた過去がある。そのことは結婚してから彼女の父親の姉に聞かされるのだが、硬派だった彼女の父親からすれば、軟派な私をどう思っていたのかは今となっては聞くことができない。それでも彼女の父親とはなんとなく波長が合った。酒が大好きな人だった。私が彼女の実家を訪ねるたびに宴となる。私も酒が好きなので彼女の父親は、プレミアのついた焼酎や清酒を取り寄せては飲ませてくれた。そんな兄のような彼女の父親。義理の父親だったが50代で癌が見つかった。ステージ4だった。見つかって半年でこの世を去ってしまった。癌と判明するほんの少し前の夏、庭で一緒に焼き肉を食べていたのだが、その時に喉の不調を訴えていた。まさか癌だったとは思いもよらなかった。それまで身内で癌になった人がいなかったので、本やネットで癌について調べたのはその時が初めてだった。亡くなる少し前に彼女の父親に子どもを預かってもらっていたので、挨拶しようと思ったが捜しても見当たらない。仕方がないので挨拶をしないで帰った。その後電話がかかってきて「挨拶もしないで帰るとは何事だ」と言って叱られたのが最後の言葉だった。最後くらい笑ってお別れしたかったが、最後に会ったのは自宅のベッドで呼吸をしているだけの状態だった。私より背が高くがっちりとした身体はやせ細り、もう骨と皮だけの姿になっていた。私が両手で右手を握ると温かかったが二度と目を開けることはなかった。

お義父さんと呼ばせてもらってから亡くなるまでの15年間、私の子供たちをとても可愛がってくれた。お義父さんは初孫の誕生にとても喜んでいた。特に娘にはメロメロで可愛がってくれたし、息子の誕生をとても喜んだ。なぜならお義父さんには息子がいないからだ。暴走族のリーダーは最期、孫たちにとっては優しくて何でも買ってくれる最高のおじいちゃんだった。65歳、「高齢者」と呼ばれる前に亡くなった。最期まで格好をつけたまま逝ってしまうなんて、彼らしい終わりだった。お義母さんは涙が枯れるまで泣き続けた。昔、看護師であったお義母さんはお義父さんの最期をその腕の中で看取ることができた。私は癌で死ぬのも悪くないと思った。なぜなら癌は余命がわかるから。事故やその他の病気では死に目に会うのは難しい。お義父さんとお義母さんは病院で知り合った。バイク事故で入院し看護師のお義母さんに一目惚れ。純愛だったそうだ。当時の悪友が葬式で話していたのを聞いた。喧嘩の絶えない夫婦で、殴られることもあったお義母さん。とにかく酒が大好きでお義母さんに面倒なことばかりかけていたお義父さん。出会いも別れもベッドの上だった。

きみとこのまま

「私はひとりでは生きられない。そう悟って、大学卒業と同時に結婚した」そう言えたのなら、格好はつくのだが、いわゆる授かり婚だ。彼女と付き合って4年目、1泊2日の旅行で、宿泊先の温泉旅館で2人は結ばれた。後先を考えなかった20代前半、その夜、布団の上で彼女と繋がっているときに、私はこの人と生涯を共にするのだな、と確信した。3か月経った頃だろうか、彼女から「妊娠したみたい」と言われた。妊娠を告げられた直後は、結婚がどういうものか、まったく考えていなかった。数週間後、彼女の家族と自分の家族に、彼女が妊娠したことと結婚したい、という旨を報告しに行くこととなった。

報告する当日、スーツに着替え彼女の家に到着する。玄関で挨拶をしたあと彼女の母親に居間へ通される。ホームドラマのように、彼女の父親が座ってテレビを観ている。彼女の父親がテレビを消しこちらに顔を向ける。居間に彼女の姉と祖母も現れ、私たちを見守る。私が「結婚させてください」と言ったら、彼女の父親が「娘を嫁がせるのか、あんたが婿養子に入るのかどっちだ」と訊いてきた。その時は「婿養子には入らないです」と返したが、いま彼女の父親くらいの年齢になって気が付いたのは、彼女の父親なりの冗談だったのではないかということ。彼女の父親は若かりし頃、暴走族のリーダーだった。夜な夜なバイクを乗り回し仲間を引き連れていた過去がある。そのことは結婚してから彼女の父親の姉に聞かされるのだが、硬派だった彼女の父親からすれば、軟派な私をどう思っていたのかは今となっては聞くことができない。それでも彼女の父親とはなんとなく波長が合った。酒が大好きな人だった。私が彼女の実家を訪ねるたびに宴となる。私も酒が好きなので彼女の父親は、プレミアのついた焼酎や清酒を取り寄せては飲ませてくれた。そんな兄のような彼女の父親。義理の父親だったが50代で癌が見つかった。ステージ4だった。見つかって半年でこの世を去ってしまった。癌と判明するほんの少し前の夏、庭で一緒に焼き肉を食べていたのだが、その時に喉の不調を訴えていた。まさか癌だったとは思いもよらなかった。それまで身内で癌になった人がいなかったので、本やネットで癌について調べたのはその時が初めてだった。亡くなる少し前に彼女の父親に子どもを預かってもらっていたので、挨拶しようと思ったが捜しても見当たらない。仕方がないので挨拶をしないで帰った。その後電話がかかってきて「挨拶もしないで帰るとは何事だ」と言って叱られたのが最後の言葉だった。最後くらい笑ってお別れしたかったが、最後に会ったのは自宅のベッドで呼吸をしているだけの状態だった。私より背が高くがっちりとした身体はやせ細り、もう骨と皮だけの姿になっていた。私が両手で右手を握ると温かかったが二度と目を開けることはなかった。

映画『すずめの戸締り』を観て※ネタバレあります。【再掲】

2022.11.21に、新海誠監督の映画、『すずめの戸締り』を観てきた。観る前のイメージは、またなんか『君の名は。』みたいな作品かなと思っていたのだが。『天気の子』もそうであるが、災害をテーマにいずれも作られている。今回はより東日本大震災と向き合った作品であることは間違いない。ヒロインの岩戸鈴芽(いわとすずめ)母の妹、叔母の環(たまき)と二人暮らし。登校中に美しい青年、草太(そうた)と出会うことから始まる。草太は廃墟を探しているという。気になる鈴芽は登校せずに、山の旧温泉街の廃墟に向かう。そこで不思議な扉を見つける開くと扉の向こうにはきれいな景色が。入ろうとするが入れない。何かにつまずく。つまずいた土偶のようなものを引き抜くと、それがダイジンという猫に変化する。怖くなって学校へ。昼休みに友達と話している緊急地震速報とともに揺れる。外を見ると山から不気味な煙のような巨大な何かが立ち昇る。もしかしたらという不安から、再び廃墟へ。そこで草太に再会する。草太は開いている扉から勢いよく飛び出している煙のようなものを閉じ込めようとしているが失敗する。そこへ鈴芽が手伝い扉を草太が持っている鍵で施錠する。草太は代々続く「閉じ師」の後継者。祖父は入院している。けがをした草太を鈴芽が家に連れていき、そこへ猫のダイジンがやってきて、草太を呪いにかけ3本脚の椅子にしてしまう。3本脚の椅子は母が誕生日に作ってくれた椅子だ。唯一の形見である。ダイジンは外へ逃げる。三本脚の椅子、草太が追うも逃げられてしまう。SNSではダイジンの写真と目撃情報が相次いで投稿される。ダイジンを捕まえて呪いを解くために、地元の九州からフェリーに乗って四国へ。そこで同い年の女子高生に出会う。そこでも再び彼女が昔通っていたという廃校になった学校の扉からミミズのような煙が。椅子になった草太の代わりに今度は鈴芽が扉を閉めて封印する。出会った女子高生は旅館でアルバイトをしているのでそこへ泊めてもらう。朝起きてテレビのニュースを見ると再びダイジンの姿が。別れを告げ、ヒッチハイクで神戸へ向かう。そこではやはり廃墟となっている遊園地の観覧車からミミズが。このミミズが地面に落ちると大きな地震が発生してしまう。一度、鈴芽が昔の思い出に惑わされてしまうものの、何とか草太の助けを借りて封印に成功する。鈴芽が引き抜いてしまった土偶のようなものが地震をミミズの強大な力の抑止力となっていた要石(かなめいし)だったのだ。ここではヒッチハイクをしているときに車に乗せてくれたスナック従業員の2人の子持ちの女性に泊めてもらう。

以上もう眠くなったので書くのをやめるが、感想としてはかなりトラウマな内容となっている。東日本大震災で家族や親友を亡くされている方が観るのには大変辛いものがある。私は東北出身であるので思い出すと今でも胸が苦しくなる。また作品中、何度も緊急地震速報のアラームが鳴る描写もちょっとしんどい。観るには覚悟がいる。いつかは乗り越えなくてはならないよねって言っているようだ。観客の受け取り方は観客の数だけある。ひとそれぞれ。わたしは震災で近い人を亡くしているわけではないけれど、それでもしんどい。よくぞ描いてくれたという人もいると思う。でも実際あの時は放射線が怖くて、家から1週間出られなかったり、換気も怖くてできなかったり、そのせいで子供がハウスダストでアレルギーになったり、揺れに敏感になったり、あらゆるデマ、火事場泥棒、津波で家が流される映像、繰り返されるCMなど。精神的にきつかった。でもこういう体験をしたから次の世代に伝えられる。記憶は消えていくが作品は形として残る。この作品を見るたびに震災の記憶を都度よみがえらせて防災に役立てていければ幸いだ。そういう面ではアニメというオブラートが良い役割をしているのだと思う。

https://youtu.be/8zGz4z3bdzg