あにろっくのブログ

誰かの明日への生きる力になれたらと思います。いやまじめか!

隣にあなたはいない √2

「本日も1日、よろしくお願いします」社員全員でのあいさつが終わり、仕事が始まる。私の仕事は自動車学校の「教習指導員」。世間では「教官」とか「先生」と言われる職業だ。教習指導員の仕事は過酷だ。強く叱るとクレームになるし、オモシロ楽しく教えないと、生徒から評価してもらえない。そうかといって、楽しくばかりではいられない。教習所を卒業して交通事故を起こさないドライバーになってもらわないといけないのだ。毎日過剰なストレスと自己嫌悪だ。自分が運転免許を取った頃は、今のようなお客様商売をしていなかった。教習車両を障害物のポールなんかにぶつけた日には、教官から「降りて車を見てみろ!」と怒鳴られる始末。私はそれで1週間、教習所を無断で休んだことがある。そんな私がまさか教習指導員になるなんて、人生は何が起きるか分からない。指導員になって早2年、これまでいろんな生徒さんを指導してきた。さて、今日はどんな生徒さんかな。

24号車で待っていると、教習所のコンピュータでランダムに割り振られた生徒さんが教習原簿(課題をクリアすると教習印を押す紙)を持って近づいてくる。中年の女性が「よろしくお願いします」と私にその原簿を渡す。彼女を助手席のほうに案内する。最近の教習所はこうして、教習車のドアを開けて助手席に乗せてから指導員が運転席に座り、預かった教習原簿を見ながら本人確認と前回指導した指導員の申し送りや引き継ぎ事項などを確認する。そうしたあと彼女に緊張をほぐしてもらうため、「前回はどうでしたか?」と聞いてみる。すると彼女は「まだ路上に出たばかりで緊張します」と言った。「では、今日も路上です、車線変更をたくさん練習しましょう」と私が言うと、彼女は「はい、がんばります」と頷いた。

一旦、2人とも教習車から降りる。彼女は車のまわりを1周し、しゃがんで車の下の安全を確かめる。車のドアを閉める際も閉まる少し手前で1度止め、それから力を込めて閉じる。半ドアを防止するためだ。教習所に通った人なら誰でもこの一連の動作を教わる。彼女は運転席のシートを合わせ、各ミラーを合わせ、ハンドルの高さを合わせる。彼女は背が低いため座席調節には他の生徒より時間がかかる。ようやくシートベルトを装着し、ハンドルの左側にあるエンジンスイッチを押す。「あれ?エンジンが掛かりません」私はすぐにその原因に気づく。「ブレーキペダルを踏んでないですよ」オートマチック車はブレーキを踏んでいないと、安全装置が働き、エンジンが始動しない仕組みとなっている。「あ、すみません」と恥ずかしそうにする彼女。とても緊張しているようだ。心地よいエンジン音とともに彼女は左後方からぐるりと周囲の安全を確認し、右のウィンカーを出す。サイドブレーキを外しブレーキペダルを離すと24号車はゆっくり動き出す。教習所のコースを半周したあと、路上に出る。1時限の教習時間は50分である。それまでに戻ってくる必要がある。残り45分で彼女に自信をつけさせなくてはならない。「では、次の交差点を左に曲がってください」彼女が頷くと教習車は片側3車線ある幹線道路へ進む。交通量が多く流れも速い道路だ。この道路は工業地帯へ続いている。ウチの教習所はこの工業地帯付近の道路を警察に申請して路上コースとして運用している。私はそこで彼女に車線変更を繰り返し練習させ、自信をつけてもらいたいのだ。しかし、その願いとは裏腹に、彼女の期待を裏切ってしまうことになるとは、この時まだ私は知る由もない。