あにろっくのブログ

誰かの明日への生きる力になれたらと思います。いやまじめか!

隣にあなたはいない √4

「本日も1日、よろしくお願いします」社員全員でのあいさつが終わり、仕事が始まる。私の仕事は自動車学校の「教習指導員」。世間では「教官」とか「先生」と言われる職業だ。教習指導員の仕事は過酷だ。強く叱るとクレームになるし、オモシロ楽しく教えないと、生徒から評価してもらえない。そうかといって、楽しくばかりではいられない。教習所を卒業して交通事故を起こさないドライバーになってもらわないといけないのだ。毎日過剰なストレスと自己嫌悪だ。自分が運転免許を取った頃は、今のようなお客様商売をしていなかった。教習車両を障害物のポールなんかにぶつけた日には、教官から「降りて車を見てみろ!」と怒鳴られる始末。私はそれで1週間、教習所を無断で休んだことがある。そんな私がまさか教習指導員になるなんて、人生は何が起きるか分からない。指導員になって早2年、これまでいろんな生徒さんを指導してきた。さて、今日はどんな生徒さんかな。

24号車で待っていると、教習所のコンピュータでランダムに割り振られた生徒さんが教習原簿(課題をクリアすると教習印を押す紙)を持って近づいてくる。中年の女性が「よろしくお願いします」と私にその原簿を渡す。彼女を助手席のほうに案内する。最近の教習所はこうして、教習車のドアを開けて助手席に乗せてから指導員が運転席に座り、預かった教習原簿を見ながら本人確認と前回指導した指導員の申し送りや引き継ぎ事項などを確認する。そうしたあと彼女に緊張をほぐしてもらうため、「前回はどうでしたか?」と聞いてみる。すると彼女は「まだ路上に出たばかりで緊張します」と言った。「では、今日も路上です、車線変更をたくさん練習しましょう」と私が言うと、彼女は「はい、がんばります」と頷いた。

一旦、2人とも教習車から降りる。彼女は車のまわりを1周し、しゃがんで車の下の安全を確かめる。車のドアを閉める際も閉まる少し手前で1度止め、それから力を込めて閉じる。半ドアを防止するためだ。教習所に通った人なら誰でもこの一連の動作を教わる。彼女は運転席のシートを合わせ、各ミラーを合わせ、ハンドルの高さを合わせる。彼女は背が低いため座席調節には他の生徒より時間がかかる。ようやくシートベルトを装着し、ハンドルの左側にあるエンジンスイッチを押す。「あれ?エンジンが掛かりません」私はすぐにその原因に気づく。「ブレーキペダルを踏んでないですよ」オートマチック車はブレーキを踏んでいないと、安全装置が働き、エンジンが始動しない仕組みとなっている。「あ、すみません」と恥ずかしそうにする彼女。とても緊張しているようだ。心地よいエンジン音とともに彼女は左後方からぐるりと周囲の安全を確認し、右のウィンカーを出す。サイドブレーキを外しブレーキペダルを離すと24号車はゆっくり動き出す。教習所のコースを半周したあと、路上に出る。1時限の教習時間は50分である。それまでに戻ってくる必要がある。残り45分で彼女に自信をつけさせなくてはならない。「では、次の交差点を左に曲がってください」彼女が頷くと教習車は片側3車線ある幹線道路へ進む。交通量が多く流れも速い道路だ。この道路は工業地帯へ続いている。ウチの教習所はこの工業地帯付近の道路を警察に申請して路上コースとして運用している。私はそこで彼女に車線変更を繰り返し練習させ、自信をつけてもらいたいのだ。しかし、その願いとは裏腹に、彼女の期待を裏切ってしまうことになるとは、この時まだ私は知る由もない。

道路標識や交通信号などに従いながら順調に走る。「いいですよ、調子が出てきましたね」と私が言う。すると彼女はニコッと笑みを浮かべ「ありがとうございます」と言い赤信号で停止する。「次は3つ目の信号交差点で左折しましょう」と私が言うと、彼女は「はい」と頷いた。青信号で24号車は進み、3つ目の信号交差点に差し掛かる。ミラーや目視で前もって安全を確かめたあと、左端によるための進路変更の合図を出す。再確認ができ左端に寄せようとしたその時だ、緊張からか瞬間的にハンドルを勢いよく左に回したため、一段高くなった歩道の縁石(えんせき)に左のタイヤがぶつかりそうになる。助手席から指導用のブレーキを緊急で踏む。私が右手でハンドルを押さえながら大声で「危ない!何やってるんですか!」と叫ぶ。一瞬のできごとだった。その後から彼女は萎縮してしまって、教習所に戻ってくるのがやっとの有様だった。私も強く言い過ぎてしまった。場内のコースに戻って24号車が停止する。静まる車内で私が「左端に寄るときはもっとゆるやかに徐々にハンドルを切っていきましょうね」と言う。もちろん、先ほど厳しい口調を反省しながら。彼女はムスッとした顔で返事はない。私もその時言い過ぎたことを謝罪すればよかったのだが、なぜかその時は謝ることができなかった。「おつかれさまでした」と彼女に教習原簿を渡す。なにか言いたそうな彼女はそのまま教習所のロビーに向かっていった。終業時間になり、一通り後片付けや事務作業を終えタバコを吸おうと喫煙所へ向かう。すると、後ろから「ちょっといいか」と上司に呼び止められた。上司と共に社長室に向かう。正確には社長兼この自動車学校のオーナーだ。社長が「今日のお客様アンケートであなたの名前が記載されています。内容は技能教習中に怒鳴られた、とのことですが、なにか心当たりはありますか?」私が「はい」と気まずそうに返事をすると矢継ぎ早に上司が、「困るんだよねえ、怒鳴られたなんてことがお客様に広まれば、集客に大きくするんですよ。怒鳴る前にお客様の目線や挙動で急な動きを察知できたでしょ」とベテラン指導員でもある上司が言う。確かにそうだ。何も返す言葉がなかった。下を向いている私に社長が「このお客様の指導は外しますので、いいですね」と言った。「はい、たいへん申し訳ありませんでした」と返事をし深くお辞儀をしその場をあとにした。

「左に寄れって言うからハンドルを切っただけなのに。あんなに怒鳴られるとは思ってもみなかった!」技能教習が終わって教習所のロビーに戻ってきた彼女。「もー聞いてくださいよー」と窓口で彼女のスケジュールを担当している事務員が話を聞いている。「指導員が大変失礼しました。申し訳ありません。二度と彼が配車されないようにスケジュールを組み直しますので……」事務員が今にも泣きそうな彼女を必死になだめる。「評判のいいこちらの自動車学校を選んだっていうのに、あんな教え方をする指導員がいるなんて、辞めさせてください」彼女の怒りは収まらない。「申し訳ありません」事務員は再び頭を下げる。「次の10時10分からの実技教習はどうされますか」と事務員が聞く。「今日はもう帰ります」と言って彼女は教習所のロビーからうつむいて出ていってしまった。彼女が運転免許を取得する理由は、幼稚園に通う子供の送り迎えのためだ。ふだんは幼稚園バスを利用しているが、子供は急に熱を出したりすることもあるので迎えに行かなくてはならない。公共機関が充実している都市で40年暮らしてきた彼女。今回の運転免許取得はハードなチャレンジだ。毎晩、教習所でのできごとを彼女の夫に話すことが日課となっていた。その日も帰宅した夫が玄関に入るなり口を開く。「もう教習所に行きたくない」彼女の夫は「ええ、なにがあったの?あんなに頑張ってたのに」と優しく彼女の頭を撫でる。