あにろっくのブログ

誰かの明日への生きる力になれたらと思います。いやまじめか!

きみとこのまま6

「私はひとりでは生きられない。そう悟って、大学卒業と同時に結婚した」そう言えたのなら、格好はつくのだが、いわゆる授かり婚だ。彼女と付き合って4年目、1泊2日の旅行で、宿泊先の温泉旅館で2人は結ばれた。後先を考えなかった20代前半、その夜、布団の上で彼女と繋がっているときに、私はこの人と生涯を共にするのだな、と確信した。3か月経った頃だろうか、彼女から「妊娠したみたい」と言われた。妊娠を告げられた直後は、結婚がどういうものか、まったく考えていなかった。数週間後、彼女の家族と自分の家族に、彼女が妊娠したことと結婚したい、という旨を報告しに行くこととなった。

報告する当日、スーツに着替え彼女の家に到着する。玄関で挨拶をしたあと彼女の母親に居間へ通される。ホームドラマのように、彼女の父親が座ってテレビを観ている。彼女の父親がテレビを消しこちらに顔を向ける。居間に彼女の姉と祖母も現れ、私たちを見守る。私が「結婚させてください」と言ったら、彼女の父親が「娘を嫁がせるのか、あんたが婿養子に入るのかどっちだ」と訊いてきた。その時は「婿養子には入らないです」と返したが、いま彼女の父親くらいの年齢になって気が付いたのは、彼女の父親なりの冗談だったのではないかということ。彼女の父親は若かりし頃、暴走族のリーダーだった。夜な夜なバイクを乗り回し仲間を引き連れていた過去がある。そのことは結婚してから彼女の父親の姉に聞かされるのだが、硬派だった彼女の父親からすれば、軟派な私をどう思っていたのかは今となっては聞くことができない。それでも彼女の父親とはなんとなく波長が合った。酒が大好きな人だった。私が彼女の実家を訪ねるたびに宴となる。私も酒が好きなので彼女の父親は、プレミアのついた焼酎や清酒を取り寄せては飲ませてくれた。そんな兄のような彼女の父親。義理の父親だったが50代で癌が見つかった。ステージ4だった。見つかって半年でこの世を去ってしまった。癌と判明するほんの少し前の夏、庭で一緒に焼き肉を食べていたのだが、その時に喉の不調を訴えていた。まさか癌だったとは思いもよらなかった。それまで身内で癌になった人がいなかったので、本やネットで癌について調べたのはその時が初めてだった。亡くなる少し前に彼女の父親に子どもを預かってもらっていたので、挨拶しようと思ったが捜しても見当たらない。仕方がないので挨拶をしないで帰った。その後電話がかかってきて「挨拶もしないで帰るとは何事だ」と言って叱られたのが最後の言葉だった。最後くらい笑ってお別れしたかったが、最後に会ったのは自宅のベッドで呼吸をしているだけの状態だった。私より背が高くがっちりとした身体はやせ細り、もう骨と皮だけの姿になっていた。私が両手で右手を握ると温かかったが二度と目を開けることはなかった。

お義父さんと呼ばせてもらってから亡くなるまでの15年間、私の子供たちをとても可愛がってくれた。お義父さんは初孫の誕生にとても喜んでいた。特に娘にはメロメロで可愛がってくれたし、息子の誕生をとても喜んだ。なぜならお義父さんには息子がいないからだ。暴走族のリーダーは最期、孫たちにとっては優しくて何でも買ってくれる最高のおじいちゃんだった。65歳、「高齢者」と呼ばれる前に亡くなった。最期まで格好をつけたまま逝ってしまうなんて、彼らしい終わりだった。お義母さんは涙が枯れるまで泣き続けた。昔、看護師であったお義母さんはお義父さんの最期をその腕の中で看取ることができた。私は癌で死ぬのも悪くないと思った。なぜなら癌は余命がわかるから。事故やその他の病気では死に目に会うのは難しい。お義父さんとお義母さんは病院で知り合った。バイク事故で入院し看護師のお義母さんに一目惚れ。純愛だったそうだ。当時の悪友が葬式で話していたのを聞いた。喧嘩の絶えない夫婦で、殴られることもあったお義母さん。とにかく酒が大好きでお義母さんに面倒なことばかりかけていたお義父さん。出会いも別れもベッドの上だった。

妻はそんな義父の性格をそのまま受け継いだのではないかと思うくらいに豪快でわがままである。彼女は活発で中学で一緒にハンドボールをしていた。ショートカットで色黒で当時は私より背が高く頭も良かった。そんな彼女とは中学時代あまり会話をしたことがなかった。私には他に好きな人がいたからだ。中学を卒業して高校に入ってから、その好きな人と付き合うことができた。別々の高校になってお互いハンドボールをやっていたので、毎日練習でデートどころではなかった。市の大会で会うことができたくらいだろうか。次第に気持ちが離れていき、破局を迎えた。一方、今の妻も別の強豪校でハンドボールを続けていたので大会で遠くから見てはいた。しかしその時は全く彼女に興味は湧かなかったのである。じゃあどこで、どのタイミングで付き合うことになるのかはまだ後の話。高校1年のときにハンドボールでレギュラーとなり、先輩たちのおかげと運もあって県大会で優勝し、東北大会で準優勝し全国大会へ出場となった。全国大会では横浜の強豪校と対戦しトリプルスコアをつけられ、初戦で敗退となった。彼女(現在の妻)の方も全国大会に出場した。旅館が一緒で、宴会場で彼女の高校と一緒に朝飯と夕飯を食べた。同じ部活の男子校と女子校の唯一の接点といっても過言ではない。互いに異性の目を気にしながらの食事。その時私は、彼女のひとつ上の先輩が好みのタイプだったので、先輩しか見ていなかった。食事後、タコ部屋で男子どもが雑魚寝しながらやれ覗きに行こうだの、誰が好みかだの男子校生は四六時中、(少なくとも私の周りの男子は)女子のことを考えていて、妄想を膨らませているのである。

彼女(妻)との再開は高校を卒業して、私が1浪し大学に入学をする前の3月だったであろうか。彼女から手紙が届いたのである。当時大流行したプリントシール付きの手紙。女性から手紙が届くなんて小学校の年賀状以来である。今は携帯電話やSNSで好きな相手と直接連絡が取れる。昔は自宅に電話をすると彼女の親やきょうだいが出たあと、本人に繋いでもらっていた。本人が受話器を取ることは事前に約束していた時である。今となっては、あの緊張感を子ども達が味わえないのは少々もったいない気がする。ポケットベルは画期的だった。1年ほど使ってPHSを持つようになり、社会人になって携帯電話を持つようになるのだが、次第に携帯のeメールやショートメッセージへと遷移していく。Windows95が登場した時には興奮した。その時はまだテクノロジーという分野で日本が欧米に飲み込まれていくなんて思いもしなかった。手紙や葉書というアナログなものは次第に廃れていく。ただし、消えはしないだろう。今再びカセットテープやレコードがまた脚光を浴びるように。時代は常に回り巡るのだ。そんな彼女からの手紙に私のハートはすでに撃ち抜かれていたのだ。手紙の内容は覚えていないが彼女の体温が伝わってくるような文面だったことだけを覚えている。

東京で一人暮らし。大学から徒歩3分の場所に部屋を借りた。家賃3万5千円の四畳半。風呂トイレ付き。父親の知り合いのトラック運転手にお願いして、事前に買った冷蔵庫と洗濯機とテレビと布団と電話機を乗せて早朝出発し、昼に到着する。あけぼの荘102号室に搬入しドライバーに謝礼を渡し、見送った。ガスと電気が開通し近くの電気店で買ってきたペンダントライトを取り付ける。和室にぴったりなサイズとデザイン。約7、8万円で電話回線を通した部屋に電話機を繋いで彼女に電話をする。「今、東京に着いたよ。来週の日曜日ヒマだったら遊ぼうよ」と私からアプローチする。渋谷のハチ公前で待ち合わせ。初めてのスクランブル交差点はとても人が多かった。人の流れを計算して進行方向よりもマイナス方向に歩き出す。外国人がこの風景を見たくなるのも分かる気がした。初めての渋谷駅なのにハチ公出口には難なく到着できた。ハチ公の銅像の小ささにはびっくりした。道端で中古の週刊誌を売っていたり、募金箱を持った人がとにかくたくさんいて、1人で座っていたところにお世辞にもきれいとは言えない格好の小柄な女性が募金を求めてきた。財布から100円を取り出して渡した。そこに後ろから彼女が現れ、腕を掴み「怪しい募金だからあっちに行こう」とその場を離れた。渋谷のパルコ、東急ハンズ、ロフトなどで雑貨を見たあと、古着屋巡りをした。2人とも体育会系ということもあり、3本線の入ったジャージが好きだった。トレフォイルのマークが付いた上着を買った。東京はとにかく歩く。めちゃくちゃ足が痛くなったのを覚えている。田舎ではほとんど自転車で行動していたからだ。その後山手線で新宿へ。南口のミロードでパスタ屋に入り、彼女はタラコスパゲティ、私はペペロンチーノを食べた。食べるときに彼女がスプーンとフォークの両方を使って麺をくるくる巻いて食べるのよと教えてくれた。それから「森田一義アワー笑っていいとも」のオープニングでお馴染み、新宿アルタ前を通って資生堂パーラーや西口の京王百貨店で惣菜やスイーツを見たりして夕方になった。初デートということもあり、彼女を東急田園都市線渋谷駅まで見送った。帰宅してから彼女に電話して次は「夢の国」に行こうということになった。

渋谷駅で待ち合わせをして山手線で東京駅へ、そこから京葉線舞浜駅へ降り立った。ゲートには開場前にも関わらずものすごい人の数。売り場でチケットを買い入場した。夢の国。私はどちらかと言うと人に興味がある。昔から高校の部活帰りに駅のミスドやマックに立ち寄り、人間観察をする。もちろん可愛い子には目が行くのだが、それだけではなくて、その人の身に着けている服や靴に興味があった。私自身はファッションセンスが無いので、雑誌で研究したがブランド名を覚えただけでセンスは磨かれなかった。そもそもお金が無かった。夢の国では建築物や花壇が気になった。なぜ夢の国に人は惹きつけられるのか。だから楽しむ余裕はどこにもなかった。そんなこともあって、彼女との会話も何を話せばいいかわからないし、2人の写真を撮ってもらうために赤の他人に声を掛けることなんて、人見知りの私ができるわけがない。こんな調子だから彼女の表情も次第に曇っていき、怒らせてしまい、人の波をどんどんかき分けて行く彼女を見失ってしまった。というか、私は見失いたかったのだ。たぶん。当時は携帯電話がない。あるのはポケットベルのメッセージ機能。「イマドコ?」って送信しても返ってこない。見失って1時間経過した頃、一瞬、遠くで彼女のようなシルエット。慌てて追いかける。近づいていくと間違いなく彼女だった。彼女の左腕を掴み、私が「よかった、見つけた」というと、彼女は安堵の表情をする。外はすっかり暗くなりエレクトリカルパレードを観て、夢の国をあとにした。夢の国での喧嘩で彼女を見つけられなかった場合、結婚することもなかったのではないか。ものすごい人の数の中で彼女を見つけたあの時の自分に感謝しかない。ある時、そのエピソードを子供たちに話したら、2人らしい話だねと笑っていた。その事件の後、彼女が主導権をずっと握ることになるとは、あの時の自分には内緒にしておこう。