あにろっくのブログ

誰かの明日への生きる力になれたらと思います。いやまじめか!

ジグソーパズル

 母親が買ってきた夜景の写真のジグソーパズル。外国にある橋を下から見上げた構図の写真で1000ピースのもの。日曜日に母と一緒に挑戦した。最初は直線部分が含まれた端の部分からつなぎ合わせて外枠をつくる。それから人や物のピース、続いて同系色のピースを集めてはめていくのが割と完成させるコツだと聞いた。3時間位で完成した1000ピースのジグソーパズル。完成してしまうと不思議なもので、先程までの興味とやる気は消え失せている。当然と言えばそれまでなのだが。

 また次の日曜日に母親とおもちゃ屋でジグソーパズルを買う。今度は2000ピースのもの。今度は3時間で終わらず、次の日曜日もその次の日曜日も取り組んで、あと5ピースで完成というところで「あれ1ピース足りない」。座布団の下やジグソーパズルの入っていた箱の下や中、あらゆるところを探してが見つからなかった。箱の中にハガキが入っていた。アフターサービスとして紛失したピースを無料で送ってくれるというものだった。無くしたのか最初から入っていなかったのかは調べようがないが、完成させるために何列目の何段目かを記入して、さらに空白になっているピースの独特の形をなぞって添付されていたハガキに書き写した。

 そのハガキを送った1週間後、封筒に最後の1ピースが入って送られてきた。「やっと完成だね」と母に言ってピースをはめようとしたが入らない。向きが違っているのかもと思って残り3方向も念のため試したが、全く当てはまらない。色味は確かに合っているのだけれどもはまらない。母親も「こんな事あるんだね」といいながら、今度は電話でその販売元の会社に電話をした。

 1週間後、今度は同じものが新品で届いた。少し気が滅入ったが、また時間をかけて取り組んだ。こんどは2回目の日曜日で完成することができたのだが約1ヶ月間、あんなにも執着して取り組んでいたジグソーパズル、完成した途端、全く興味が無くなった。どんな写真だったかも思い出せないし、ジグソーパズルはそれから今まで1度もやっていない。

きみとこのまま5

「私はひとりでは生きられない。そう悟って、大学卒業と同時に結婚した」そう言えたのなら、格好はつくのだが、いわゆる授かり婚だ。彼女と付き合って4年目、1泊2日の旅行で、宿泊先の温泉旅館で2人は結ばれた。後先を考えなかった20代前半、その夜、布団の上で彼女と繋がっているときに、私はこの人と生涯を共にするのだな、と確信した。3か月経った頃だろうか、彼女から「妊娠したみたい」と言われた。妊娠を告げられた直後は、結婚がどういうものか、まったく考えていなかった。数週間後、彼女の家族と自分の家族に、彼女が妊娠したことと結婚したい、という旨を報告しに行くこととなった。

報告する当日、スーツに着替え彼女の家に到着する。玄関で挨拶をしたあと彼女の母親に居間へ通される。ホームドラマのように、彼女の父親が座ってテレビを観ている。彼女の父親がテレビを消しこちらに顔を向ける。居間に彼女の姉と祖母も現れ、私たちを見守る。私が「結婚させてください」と言ったら、彼女の父親が「娘を嫁がせるのか、あんたが婿養子に入るのかどっちだ」と訊いてきた。その時は「婿養子には入らないです」と返したが、いま彼女の父親くらいの年齢になって気が付いたのは、彼女の父親なりの冗談だったのではないかということ。彼女の父親は若かりし頃、暴走族のリーダーだった。夜な夜なバイクを乗り回し仲間を引き連れていた過去がある。そのことは結婚してから彼女の父親の姉に聞かされるのだが、硬派だった彼女の父親からすれば、軟派な私をどう思っていたのかは今となっては聞くことができない。それでも彼女の父親とはなんとなく波長が合った。酒が大好きな人だった。私が彼女の実家を訪ねるたびに宴となる。私も酒が好きなので彼女の父親は、プレミアのついた焼酎や清酒を取り寄せては飲ませてくれた。そんな兄のような彼女の父親。義理の父親だったが50代で癌が見つかった。ステージ4だった。見つかって半年でこの世を去ってしまった。癌と判明するほんの少し前の夏、庭で一緒に焼き肉を食べていたのだが、その時に喉の不調を訴えていた。まさか癌だったとは思いもよらなかった。それまで身内で癌になった人がいなかったので、本やネットで癌について調べたのはその時が初めてだった。亡くなる少し前に彼女の父親に子どもを預かってもらっていたので、挨拶しようと思ったが捜しても見当たらない。仕方がないので挨拶をしないで帰った。その後電話がかかってきて「挨拶もしないで帰るとは何事だ」と言って叱られたのが最後の言葉だった。最後くらい笑ってお別れしたかったが、最後に会ったのは自宅のベッドで呼吸をしているだけの状態だった。私より背が高くがっちりとした身体はやせ細り、もう骨と皮だけの姿になっていた。私が両手で右手を握ると温かかったが二度と目を開けることはなかった。

お義父さんと呼ばせてもらってから亡くなるまでの15年間、私の子供たちをとても可愛がってくれた。お義父さんは初孫の誕生にとても喜んでいた。特に娘にはメロメロで可愛がってくれたし、息子の誕生をとても喜んだ。なぜならお義父さんには息子がいないからだ。暴走族のリーダーは最期、孫たちにとっては優しくて何でも買ってくれる最高のおじいちゃんだった。65歳、「高齢者」と呼ばれる前に亡くなった。最期まで格好をつけたまま逝ってしまうなんて、彼らしい終わりだった。お義母さんは涙が枯れるまで泣き続けた。昔、看護師であったお義母さんはお義父さんの最期をその腕の中で看取ることができた。私は癌で死ぬのも悪くないと思った。なぜなら癌は余命がわかるから。事故やその他の病気では死に目に会うのは難しい。お義父さんとお義母さんは病院で知り合った。バイク事故で入院し看護師のお義母さんに一目惚れ。純愛だったそうだ。当時の悪友が葬式で話していたのを聞いた。喧嘩の絶えない夫婦で、殴られることもあったお義母さん。とにかく酒が大好きでお義母さんに面倒なことばかりかけていたお義父さん。出会いも別れもベッドの上だった。

妻はそんな義父の性格をそのまま受け継いだのではないかと思うくらいに豪快でわがままである。彼女は活発で中学で一緒にハンドボールをしていた。ショートカットで色黒で当時は私より背が高く頭も良かった。そんな彼女とは中学時代あまり会話をしたことがなかった。私には他に好きな人がいたからだ。中学を卒業して高校に入ってから、その好きな人と付き合うことができた。別々の高校になってお互いハンドボールをやっていたので、毎日練習でデートどころではなかった。市の大会で会うことができたくらいだろうか。次第に気持ちが離れていき、破局を迎えた。一方、今の妻も別の強豪校でハンドボールを続けていたので大会で遠くから見てはいた。しかしその時は全く彼女に興味は湧かなかったのである。じゃあどこで、どのタイミングで付き合うことになるのかはまだ後の話。高校1年のときにハンドボールでレギュラーとなり、先輩たちのおかげと運もあって県大会で優勝し、東北大会で準優勝し全国大会へ出場となった。全国大会では横浜の強豪校と対戦しトリプルスコアをつけられ、初戦で敗退となった。彼女(現在の妻)の方も全国大会に出場した。旅館が一緒で、宴会場で彼女の高校と一緒に朝飯と夕飯を食べた。同じ部活の男子校と女子校の唯一の接点といっても過言ではない。互いに異性の目を気にしながらの食事。その時私は、彼女のひとつ上の先輩が好みのタイプだったので、先輩しか見ていなかった。食事後、タコ部屋で男子どもが雑魚寝しながらやれ覗きに行こうだの、誰が好みかだの男子校生は四六時中、(少なくとも私の周りの男子は)女子のことを考えていて、妄想を膨らませているのである。

彼女(妻)との再開は高校を卒業して、私が1浪し大学に入学をする前の3月だったであろうか。彼女から手紙が届いたのである。当時大流行したプリントシール付きの手紙。女性から手紙が届くなんて小学校の年賀状以来である。今は携帯電話やSNSで好きな相手と直接連絡が取れる。昔は自宅に電話をすると彼女の親やきょうだいが出たあと、本人に繋いでもらっていた。本人が受話器を取ることは事前に約束していた時である。今となっては、あの緊張感を子ども達が味わえないのは少々もったいない気がする。ポケットベルは画期的だった。1年ほど使ってPHSを持つようになり、社会人になって携帯電話を持つようになるのだが、次第に携帯のeメールやショートメッセージへと遷移していく。Windows95が登場した時には興奮した。その時はまだテクノロジーという分野で日本が欧米に飲み込まれていくなんて思いもしなかった。手紙や葉書というアナログなものは次第に廃れていく。ただし、消えはしないだろう。今再びカセットテープやレコードがまた脚光を浴びるように。時代は常に回り巡るのだ。そんな彼女からの手紙に私のハートはすでに撃ち抜かれていたのだ。手紙の内容は覚えていないが彼女の体温が伝わってくるような文面だったことだけを覚えている。

東京で一人暮らし。大学から徒歩3分の場所に部屋を借りた。家賃3万5千円の四畳半。風呂トイレ付き。父親の知り合いのトラック運転手にお願いして、事前に買った冷蔵庫と洗濯機とテレビと布団と電話機を乗せて早朝出発し、昼に到着する。あけぼの荘102号室に搬入しドライバーに謝礼を渡し、見送った。ガスと電気が開通し近くの電気店で買ってきたペンダントライトを取り付ける。和室にぴったりなサイズとデザイン。約7、8万円で電話回線を通した部屋に電話機を繋いで彼女に電話をする。「今、東京に着いたよ。来週の日曜日ヒマだったら遊ぼうよ」と私からアプローチする。渋谷のハチ公前で待ち合わせ。初めてのスクランブル交差点はとても人が多かった。人の流れを計算して進行方向よりもマイナス方向に歩き出す。外国人がこの風景を見たくなるのも分かる気がした。初めての渋谷駅なのにハチ公出口には難なく到着できた。ハチ公の銅像の小ささにはびっくりした。道端で中古の週刊誌を売っていたり、募金箱を持った人がとにかくたくさんいて、1人で座っていたところにお世辞にもきれいとは言えない格好の小柄な女性が募金を求めてきた。財布から100円を取り出して渡した。そこに後ろから彼女が現れ、腕を掴み「怪しい募金だからあっちに行こう」とその場を離れた。渋谷のパルコ、東急ハンズ、ロフトなどで雑貨を見たあと、古着屋巡りをした。2人とも体育会系ということもあり、3本線の入ったジャージが好きだった。トレフォイルのマークが付いた上着を買った。東京はとにかく歩く。めちゃくちゃ足が痛くなったのを覚えている。田舎ではほとんど自転車で行動していたからだ。その後山手線で新宿へ。南口のミロードでパスタ屋に入り、彼女はタラコスパゲティ、私はペペロンチーノを食べた。食べるときに彼女がスプーンとフォークの両方を使って麺をくるくる巻いて食べるのよと教えてくれた。それから「森田一義アワー笑っていいとも」のオープニングでお馴染み、新宿アルタ前を通って資生堂パーラーや西口の京王百貨店で惣菜やスイーツを見たりして夕方になった。初デートということもあり、彼女を東急田園都市線渋谷駅まで見送った。帰宅してから彼女に電話して次は「夢の国」に行こうということになった。

遠距離ふうふ4

40代後半で20年以上勤めていた会社を退職した。妻は何も言わなかった。というか、何も言えなかったのかもしれない。それから仕事が決まって、単身赴任の身となった。どうなるものかと思ったが、一緒に生活していた頃よりもふうふ関係は円満である。理由としては、気にしなくて(見られなくて)いいので、ストレスフリーであること。どうしても私の性格が細かい(妻は気にしない)ので、彼女の洗濯物の畳み方や干し方にはイライラする。私は洗濯物をハンガーに掛け、握りこぶし1つ分の間隔をあけて干す。洗濯物を取り込んだら、それらを洋服屋の店員のような手さばきで、きれいに畳んでタンスに仕舞う。彼女といったら干しっぱなしで、乾いたらハンガーに掛かってあるものを着ていく。タンスに仕舞うのは、シワが付くからという理由で、タンスに入っている服を着ていくことは滅多に無い。だから、物干し竿の洗濯物は増えていく一方で、新規の洗濯物を干す場所が無くなっていく。私の場合乾いた服はどんどん畳んでいって、家族一人ひとりまとめて置いていく。コンビニの品出し(賞味期限の古いものを前に置く)みたいに新しい洗濯物は下に重ねていく。お互い少しずつイライラが積み重なって、それらがピークに達すると大喧嘩に発展するのがお決まりのパターン。しょせん彼女(私)はお互い、育ってきた環境が違うから、と鼻歌で最後は自分を納得させるしかないのである。

それがどうだろう、一ヶ月も会わないでいると、妻に会いたくて仕方がないのである。それはあたかも恋人時代に戻ったかのように。よその夫婦関係にどうこう言うつもりは無いが、親友の一人は職場の若い女と不倫をしている。もう一人は2年間セックスレスで会話も無い。もう一人は夫婦円満だが定期的に風俗を利用している。私は妻が初めて関係を持った女性だ。男子校だった事も手伝って、女性に免疫が無かった。少しでも目が合ったり、話しかけられると好きになってしまうし、ボディタッチされたあかつきには「俺に惚れてるな」と勘違いしてしまう。妻は覚えていないかもしれないが、アプローチしてきたのは彼女のほうだ。おそらく。というのは、これは男性特有の勘違いも甚だしいというもので、女性に優しくされたり、気にかけてもらえるだけで好きになってしまうやろである。おそらく妻もその時は好きという感情は微塵も無かったと思う。大学に合格したときに妻からハガキが届くのである。当時はポケットベルが全盛時代でその翌年にPHSが流行するのであるが。私の番号を知らないためハガキを送ってくれたのである。内容は合格おめでとうと東京で遊ぼうと彼女のポケベル番号と彼女のプリントシール(通称プリクラ)が貼られていたのである。「へ?なんで」とその時は思ったのだが、大学で上京したときに最初に会ったのが彼女(現在の妻)である。

大学2年生の彼女、私は浪人したので1年生。久しぶりに会ったのは渋谷、ハチ公前。想像していたハチ公像は見逃してしまうほど小さくて可愛かった。そこで座って話をした。1年ぶりに見る彼女は肩まで髪が伸びていて、やわらかそうな姿に見た目は変わっていたが、話してみると地元訛りが残っていてどこか安心したのを覚えている。お台場に行ってパレットタウンの大観覧車に乗り、ヴィーナスフォートという商業施設でウインドゥショッピング、東京ジョイポリスでアトラクションやゲームを楽しんだ。遅めのランチを取った後、お台場海浜公園でぶらぶら散歩。次第に日が傾いてきてオレンジに染まっていく。その雰囲気がそうさせたのか、「付き合ってもいいかな、この流れはキスできるかも」と思っていた。2人でベンチに腰掛ける彼女の左手を優しく握る。やわらかくて冷たい。そして肩を寄せ合う。目の前にはレインボーブリッジが見えて照明が光っている。左手を彼女の右の頬に添えると瞳を閉じた。そうしてふたりの初めてのキスとなった。こんなにも女性の唇はやわらかいものかと心地よさと驚きが入り混じった。「俺と付き合ってください」と言うと嬉しそうに彼女はうなずいたのだった。それからほぼ毎日寝る前に電話をするようになったが、私は初め電話が好きではなかった。でも彼女のほうから言わせると、電話の回数は好きのバロメータらしく毎日電話をした。何日か経過した後、2回目のデートを約束した。中学で行った修学旅行ぶりの夢の国へのデートを。しかし、そこで事件は起こるのだった。今では我が家の語り草となっている。

前半は会話も弾み楽しんでいたのだが、人気のアトラクションには長蛇の列。1時間待ちなんて当たり前。当時はファストパスなんてもんは無かったからひたすら待った。とにかく会話が続かない。どういう話をすればいいのか分からない。男子校出身で部活バカの私にはこの場を乗り切る術が無いのだ。もちろん、前日までに『ホットドッグ・プレス』や『メンズノンノ』のデート特集で予習してきた。しかし、今までこんなに長い時間、女性と二人っきりでいたことなんて無いのだから限界もある。なんとかそこは乗り切ったのだが彼女はとてもつまらなそう。そこで彼女がしびれを切らしたのか、「写真を取ってもらうから、キャストさんに声かけて」と言った。日曜日だったこともあり、ゲストでごった返してなかなか見つからない。そのうえ私は大の人見知り、他人に声をかけるなんてできやしない。だから私は「お互い撮り合えばいいじゃん」と言った。それを聞いた彼女はみるみる怒りの表情となり、「じゃあ、いい!」とすたすたと先に行ってしまった。私はため息をついて下を向く。私の目の前を別のカップルが楽しそうに横切る。すると、彼女の姿が見当たらない。ここは広いパーク内、携帯電話は無い。あるのはポケベルだけ。メッセージを送るために入力する。「12(イ)71(マ)45(卜)04(゛)25(コ)」これでは埒が明かない。必死に探した。何千人の中からたった1人の彼女を見つけることなんてできるのか、できるはずがない。そう思いながらも1時間探し回って(おそらく彼女も怒りが収まり)、人混みがふっと途切れた場所に立っていた(ように見えた)。私が声を掛けるとホッとしたような表情で、私も安心して彼女を抱きしめた。そのまま帰ってもおかしくないし、ケンカ別れとなったかもしれない。諦めずに探してよかった。ただ、その事件をきっかけに主導権は彼女に移り、そのまま現在も彼女の尻に敷かれることになる。

ゴミを捨てる男

 赤信号で止まり、タバコに火を着け煙を吸って吐く。車の窓を開けて腕を外に出し、親指と中指でタバコをつまんで、人差し指でポンポンとタバコを叩いて灰を落とす。もうひとくち吸った後、「フーッ」と紫煙を吐いて火種の残る短くなったそれをいつものように捨てる。タバコの空き箱もそのまま窓の外へ投げ捨てる。昼もコンビニで買った弁当のタレが少し付いているフタと容器も、5円で買った袋と共に蓋の無い側溝に捨てる。ペットボトルも飲み終えたものを中央分離帯に捨てる。缶もそうだ。コーヒーを僅かに残し、吸い終えたタバコを飲み口から入れて貯めたものをまた道路に捨てる。部屋に帰ったらスーパーで買ってきた惣菜のパック容器、唐揚げを刺していた串、コロッケの入っていた紙の袋、箸袋、さっきまでお茶が入っていた紙コップ、まとめて部屋の外の空き地へ窓から投げ捨てる。そうやって、いつの間にか、将来の夢も希望も捨てた。残ったのはゴミのような現実だった。

 

『ハケンアニメ!』を観て

 ネトフリで『ハケンアニメ!』を観た。本当は映画館で観たかった作品。新着情報で知った。内容は何となく想像がついたのだが、それを軽く超えてきた。てっきり『SHIROBAKO』のようなものを想像していたからだ。

エンドロールで知ることになるのだが、原作は辻村深月。キャストは吉岡里帆(斎藤瞳 )、新人アニメ監督。柄本佑(行城理)はトウケイ動画のチーフプロデューサー。中村倫也演じるのは伝説の天才アニメ監督、王子千晴。王子を支えるスタジオえっじチーフプロデューサーの尾野真千子(有科香屋子)。

同クールで放送されるトウケイ動画の『サウンドバック』通称サバクとスタジオえっじの作品『運命戦線リデルライト』の「覇権」を争う内容となっている。天才の苦悩と新人の成長を描きながら、今のアニメ業界の現状を踏まえつつ、売れるアニメを作るのかそれとも自分の作りたいアニメを残すのかを観ている者に考えさせる作品。

 観終えてふと思い出されたのは、幼いころに見た『ウルトラマン』最後ウルトラマンゼットンにやられてしまう。アニメや特撮の最後を覚えているのは数少ない。その中でも『ウルトラマン』は私にとっていちばん記憶に残っている作品だ。子供の時分にとっては衝撃的というかショックだった。大人になって『ウルトラマン』の最後はあれでよかったんだなと今なら納得がいく。だから『シン・ウルトラマン』も観ることができ、再び楽しむことができたのだから。

 最近のアニメの劇場版やアニメ作品を観て思う。なぜ声優に彼・彼女を抜擢するのか?それは何億というカネが動いている。アニメーション会社が脱税して追徴課税を受ける。労働時間の問題や熱狂的なアニメファンのアンチコメントなど、たかがアニメとは言えなくなっている。声優もスキャンダルが出ればあっという間に叩かれる。商業主義的なアニメ作品が出てしまうのもやむを得ないのである。しかしながら、アニメが好きな人は知っている。行城の「10年後も語り継がれる作品を……」というセリフは本当にしびれた。誰かが理想を語らなければ創作という世界は救われないのだ。

 

 

きみとこのまま4

「私はひとりでは生きられない。そう悟って、大学卒業と同時に結婚した」そう言えたのなら、格好はつくのだが、いわゆる授かり婚だ。彼女と付き合って4年目、1泊2日の旅行で、宿泊先の温泉旅館で2人は結ばれた。後先を考えなかった20代前半、その夜、布団の上で彼女と繋がっているときに、私はこの人と生涯を共にするのだな、と確信した。3か月経った頃だろうか、彼女から「妊娠したみたい」と言われた。妊娠を告げられた直後は、結婚がどういうものか、まったく考えていなかった。数週間後、彼女の家族と自分の家族に、彼女が妊娠したことと結婚したい、という旨を報告しに行くこととなった。

報告する当日、スーツに着替え彼女の家に到着する。玄関で挨拶をしたあと彼女の母親に居間へ通される。ホームドラマのように、彼女の父親が座ってテレビを観ている。彼女の父親がテレビを消しこちらに顔を向ける。居間に彼女の姉と祖母も現れ、私たちを見守る。私が「結婚させてください」と言ったら、彼女の父親が「娘を嫁がせるのか、あんたが婿養子に入るのかどっちだ」と訊いてきた。その時は「婿養子には入らないです」と返したが、いま彼女の父親くらいの年齢になって気が付いたのは、彼女の父親なりの冗談だったのではないかということ。彼女の父親は若かりし頃、暴走族のリーダーだった。夜な夜なバイクを乗り回し仲間を引き連れていた過去がある。そのことは結婚してから彼女の父親の姉に聞かされるのだが、硬派だった彼女の父親からすれば、軟派な私をどう思っていたのかは今となっては聞くことができない。それでも彼女の父親とはなんとなく波長が合った。酒が大好きな人だった。私が彼女の実家を訪ねるたびに宴となる。私も酒が好きなので彼女の父親は、プレミアのついた焼酎や清酒を取り寄せては飲ませてくれた。そんな兄のような彼女の父親。義理の父親だったが50代で癌が見つかった。ステージ4だった。見つかって半年でこの世を去ってしまった。癌と判明するほんの少し前の夏、庭で一緒に焼き肉を食べていたのだが、その時に喉の不調を訴えていた。まさか癌だったとは思いもよらなかった。それまで身内で癌になった人がいなかったので、本やネットで癌について調べたのはその時が初めてだった。亡くなる少し前に彼女の父親に子どもを預かってもらっていたので、挨拶しようと思ったが捜しても見当たらない。仕方がないので挨拶をしないで帰った。その後電話がかかってきて「挨拶もしないで帰るとは何事だ」と言って叱られたのが最後の言葉だった。最後くらい笑ってお別れしたかったが、最後に会ったのは自宅のベッドで呼吸をしているだけの状態だった。私より背が高くがっちりとした身体はやせ細り、もう骨と皮だけの姿になっていた。私が両手で右手を握ると温かかったが二度と目を開けることはなかった。

お義父さんと呼ばせてもらってから亡くなるまでの15年間、私の子供たちをとても可愛がってくれた。お義父さんは初孫の誕生にとても喜んでいた。特に娘にはメロメロで可愛がってくれたし、息子の誕生をとても喜んだ。なぜならお義父さんには息子がいないからだ。暴走族のリーダーは最期、孫たちにとっては優しくて何でも買ってくれる最高のおじいちゃんだった。65歳、「高齢者」と呼ばれる前に亡くなった。最期まで格好をつけたまま逝ってしまうなんて、彼らしい終わりだった。お義母さんは涙が枯れるまで泣き続けた。昔、看護師であったお義母さんはお義父さんの最期をその腕の中で看取ることができた。私は癌で死ぬのも悪くないと思った。なぜなら癌は余命がわかるから。事故やその他の病気では死に目に会うのは難しい。お義父さんとお義母さんは病院で知り合った。バイク事故で入院し看護師のお義母さんに一目惚れ。純愛だったそうだ。当時の悪友が葬式で話していたのを聞いた。喧嘩の絶えない夫婦で、殴られることもあったお義母さん。とにかく酒が大好きでお義母さんに面倒なことばかりかけていたお義父さん。出会いも別れもベッドの上だった。

妻はそんな義父の性格をそのまま受け継いだのではないかと思うくらいに豪快でわがままである。彼女は活発で中学で一緒にハンドボールをしていた。ショートカットで色黒で当時は私より背が高く頭も良かった。そんな彼女とは中学時代あまり会話をしたことがなかった。私には他に好きな人がいたからだ。中学を卒業して高校に入ってから、その好きな人と付き合うことができた。別々の高校になってお互いハンドボールをやっていたので、毎日練習でデートどころではなかった。市の大会で会うことができたくらいだろうか。次第に気持ちが離れていき、破局を迎えた。一方、今の妻も別の強豪校でハンドボールを続けていたので大会で遠くから見てはいた。しかしその時は全く彼女に興味は湧かなかったのである。じゃあどこで、どのタイミングで付き合うことになるのかはまだ後の話。高校1年のときにハンドボールでレギュラーとなり、先輩たちのおかげと運もあって県大会で優勝し、東北大会で準優勝し全国大会へ出場となった。全国大会では横浜の強豪校と対戦しトリプルスコアをつけられ、初戦で敗退となった。彼女(現在の妻)の方も全国大会に出場した。旅館が一緒で、宴会場で彼女の高校と一緒に朝飯と夕飯を食べた。同じ部活の男子校と女子校の唯一の接点といっても過言ではない。互いに異性の目を気にしながらの食事。その時私は、彼女のひとつ上の先輩が好みのタイプだったので、先輩しか見ていなかった。食事後、タコ部屋で男子どもが雑魚寝しながらやれ覗きに行こうだの、誰が好みかだの男子校生は四六時中、(少なくとも私の周りの男子は)女子のことを考えていて、妄想を膨らませているのである。

彼女(妻)との再開は高校を卒業して、私が1浪し大学に入学をする前の3月だったであろうか。彼女から手紙が届いたのである。当時大流行したプリントシール付きの手紙。女性から手紙が届くなんて小学校の年賀状以来である。今は携帯電話やSNSで好きな相手と直接連絡が取れる。昔は自宅に電話をすると彼女の親やきょうだいが出たあと、本人に繋いでもらっていた。本人が受話器を取ることは事前に約束していた時である。今となっては、あの緊張感を子ども達が味わえないのは少々もったいない気がする。ポケットベルは画期的だった。1年ほど使ってPHSを持つようになり、社会人になって携帯電話を持つようになるのだが、次第に携帯のeメールやショートメッセージへと遷移していく。Windows95が登場した時には興奮した。その時はまだテクノロジーという分野で日本が欧米に飲み込まれていくなんて思いもしなかった。手紙や葉書というアナログなものは次第に廃れていく。ただし、消えはしないだろう。今再びカセットテープやレコードがまた脚光を浴びるように。時代は常に回り巡るのだ。そんな彼女からの手紙に私のハートはすでに撃ち抜かれていたのだ。手紙の内容は覚えていないが彼女の体温が伝わってくるような文面だったことだけを覚えている。

遠距離ふうふ3

40代後半で20年以上勤めていた会社を退職した。妻は何も言わなかった。というか、何も言えなかったのかもしれない。それから仕事が決まって、単身赴任の身となった。どうなるものかと思ったが、一緒に生活していた頃よりもふうふ関係は円満である。理由としては、気にしなくて(見られなくて)いいので、ストレスフリーであること。どうしても私の性格が細かい(妻は気にしない)ので、彼女の洗濯物の畳み方や干し方にはイライラする。私は洗濯物をハンガーに掛け、握りこぶし1つ分の間隔をあけて干す。洗濯物を取り込んだら、それらを洋服屋の店員のような手さばきで、きれいに畳んでタンスに仕舞う。彼女といったら干しっぱなしで、乾いたらハンガーに掛かってあるものを着ていく。タンスに仕舞うのは、シワが付くからという理由で、タンスに入っている服を着ていくことは滅多に無い。だから、物干し竿の洗濯物は増えていく一方で、新規の洗濯物を干す場所が無くなっていく。私の場合乾いた服はどんどん畳んでいって、家族一人ひとりまとめて置いていく。コンビニの品出し(賞味期限の古いものを前に置く)みたいに新しい洗濯物は下に重ねていく。お互い少しずつイライラが積み重なって、それらがピークに達すると大喧嘩に発展するのがお決まりのパターン。しょせん彼女(私)はお互い、育ってきた環境が違うから、と鼻歌で最後は自分を納得させるしかないのである。

それがどうだろう、一ヶ月も会わないでいると、妻に会いたくて仕方がないのである。それはあたかも恋人時代に戻ったかのように。よその夫婦関係にどうこう言うつもりは無いが、親友の一人は職場の若い女と不倫をしている。もう一人は2年間セックスレスで会話も無い。もう一人は夫婦円満だが定期的に風俗を利用している。私は妻が初めて関係を持った女性だ。男子校だった事も手伝って、女性に免疫が無かった。少しでも目が合ったり、話しかけられると好きになってしまうし、ボディタッチされたあかつきには「俺に惚れてるな」と勘違いしてしまう。妻は覚えていないかもしれないが、アプローチしてきたのは彼女のほうだ。おそらく。というのは、これは男性特有の勘違いも甚だしいというもので、女性に優しくされたり、気にかけてもらえるだけで好きになってしまうやろである。おそらく妻もその時は好きという感情は微塵も無かったと思う。大学に合格したときに妻からハガキが届くのである。当時はポケットベルが全盛時代でその翌年にPHSが流行するのであるが。私の番号を知らないためハガキを送ってくれたのである。内容は合格おめでとうと東京で遊ぼうと彼女のポケベル番号と彼女のプリントシール(通称プリクラ)が貼られていたのである。「へ?なんで」とその時は思ったのだが、大学で上京したときに最初に会ったのが彼女(現在の妻)である。

大学2年生の彼女、私は浪人したので1年生。久しぶりに会ったのは渋谷、ハチ公前。想像していたハチ公像は見逃してしまうほど小さくて可愛かった。そこで座って話をした。1年ぶりに見る彼女は肩まで髪が伸びていて、やわらかそうな姿に見た目は変わっていたが、話してみると地元訛りが残っていてどこか安心したのを覚えている。お台場に行ってパレットタウンの大観覧車に乗り、ヴィーナスフォートという商業施設でウインドゥショッピング、東京ジョイポリスでアトラクションやゲームを楽しんだ。遅めのランチを取った後、お台場海浜公園でぶらぶら散歩。次第に日が傾いてきてオレンジに染まっていく。その雰囲気がそうさせたのか、「付き合ってもいいかな、この流れはキスできるかも」と思っていた。2人でベンチに腰掛ける彼女の左手を優しく握る。やわらかくて冷たい。そして肩を寄せ合う。目の前にはレインボーブリッジが見えて照明が光っている。左手を彼女の右の頬に添えると瞳を閉じた。そうしてふたりの初めてのキスとなった。こんなにも女性の唇はやわらかいものかと心地よさと驚きが入り混じった。「俺と付き合ってください」と言うと嬉しそうに彼女はうなずいたのだった。それからほぼ毎日寝る前に電話をするようになったが、私は初め電話が好きではなかった。でも彼女のほうから言わせると、電話の回数は好きのバロメータらしく毎日電話をした。何日か経過した後、2回目のデートを約束した。中学で行った修学旅行ぶりの夢の国へのデートを。しかし、そこで事件は起こるのだった。今では我が家の語り草となっている。