あにろっくのブログ

誰かの明日への生きる力になれたらと思います。いやまじめか!

『ひろがるスカイ!プリキュア』第1話を観て

 ちょうど、娘が幼稚園年中さんくらいに始まった初代プリキュア。正式には『ふたりはプリキュア』という作品。『美少女戦士セーラームーン』から久しぶりに自分の中で、衝撃を受けたアニメだった。主題歌の「DANZEN!ふたりはプリキュア」は今でも歌えるとてもキャッチーなメロディである。初代は主人公がキュアブラックキュアホワイトの2人だったのでシンプルでベストだった。また今思えば、「メップル」というキャラクターの声が関智一さん(ちょうど今しがた、ジョジョの奇妙な冒険スターオーシャンを見ていたので、あのプッチ神父)というのは胸が熱くなる。


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 今回たまたまTVerで配信されているのを見た。初めてプリキュアを見た感動こそ無かったが、相変わらず可愛さが詰まっていて子供の心を惹きつける内容だった。今や「仮面ライダー」や「戦隊シリーズ」と同様にプリキュアというプラッ卜フォームで、時代背景に合わせた内容となっている。今回の『ひろがるスカイ!プリキュア』の第1話は主人公のソラがヒーローガールに憧れていて、不思議な力によりキュアスカイに変身する。どこかで見た記憶があると思ったのだが、『僕のヒーローアカデミア』をオマージュしているように思えた。ヒーローに憧れ、ヒーローを研究しているところなんかが特にそう感じざるを得ない。肝心の変身シーンは、外すことなくポップでとてもよい。これからどのような展開になるか楽しみなアニメのひとつである。

 

 

 

 

『「鬼滅の刃」上弦集結、そして刀鍛冶の里へ』を観てきた※ネタバレ

 2023.2.3節分に『鬼滅の刃』を観てきた。鬼は外、福は内と書かれた竈門炭治郎炭治郎(かまど たんじろう)、竈門禰豆子(かまど ねずこ)、我妻善逸(あがつま ぜんいつ)、嘴平伊之助(はしびら いのすけ)が描かれた葉書サイズのカードと「上弦集結本」というA4サイズの冊子が特典として配布された。

 結論からいうと、TVシリーズで観たものを映画のスクリーンで観るという感覚。2023年4月から始まる「刀鍛冶の里編」の第1話を先行して見れたのはラッキーというくらいだろうか。私は妹の鬼、堕姫(だき)と兄の鬼、妓夫太郎(ぎゅうたろう)と炭治郎、善逸、伊之助、禰豆子、音柱・宇髄天元(うずい てんげん)との死闘を大スクリーンで観たかったので迫力があって良かった。

 オープニングは、テレビで放送された「竈門炭治郎立志編」と映画にもなった「無限列車編」そして「遊郭(ゆうかく)編」の9話までをLiSAの『紅蓮華(ぐれんげ)』や『炎(ほむら)』、『残響散歌(ざんきょうさんか)』等の耳馴染みのある音楽ともに振り返る。

 

 

 

 内容はテレビ放送された「遊郭編」の第10話と11話である。私はIMAXアイマックス)と呼ばれる映像や音質の良いもので観てきたので、特に地響きや炭治郎の骨の折れる音、善逸の雷の呼吸霹靂一閃神速(へきれきいっせんしんそく)をまるでその場にいるような臨場感があった。そのあと、無限城にて上弦の鬼が集結する。上弦の参「猗窩座(あかざ)」、上弦の伍「玉壺(ぎょっこ)」、上弦の肆(し)半天狗(はんてんぐ)、上弦の弐(に)童磨(どうま)、上弦の壱(いち)黒死牟(こくしぼう)が登場する。その中でも個人的に、声優の古川登志夫さんが演じる半天狗が可愛かった。相変わらず、ネットなどではパワハラ上司と揶揄(やゆ)される炭治郎の宿敵、鬼舞辻無惨(きぶつじ むざん)は美しかった。

今回「刀鍛冶の里編」の第一話を先行して映画で観られるのだが、その中でも存在感を見せるのは鬼殺隊(きさつたい)の事後処理班である「隠」(かくし)の後藤だろう。隠しの活躍や役割が分かる。柱では恋柱・甘露寺蜜璃(かんろじ みつり)、蛇柱・伊黒小芭内(いぐろ おばない)、霞柱・時透無一郎(ときとう むいちろう)が登場する・温泉シーンでは甘露寺のセクシーシーンも見られる。アニメではよくある演出だ。また、炭治郎と鬼殺隊同期の不死川玄弥(しなずがわ げんや)とのやり取りもある。


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エンディングでは4月からの放送されるTVアニメ「刀鍛冶の里編」主題歌のMAN WITH A MISSION(マン ウィズ ア ミッション)✕milet(ミレイ)が『絆の奇跡』が流れてエンドロールとなった。4月のテレビ放送まで待てない方はぜひ劇場で。


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最後に「遊郭編」の堕姫、妓夫太郎と禰豆子、炭治郎の妹兄の対比が何回見ても良くて、心が動く。炭治郎が立場が変われば自分も鬼になっていたかもしれないこと、そして誰かが首を切ってくれることを信じて決着をつけるシーンは炭治郎の優しさを際立たせてくれる。4月からの2話以降を楽しみに期待している。

 

 

きみとこのまま10

「私はひとりでは生きられない。そう悟って、大学卒業と同時に結婚した」そう言えたのなら、格好はつくのだが、いわゆる授かり婚だ。彼女と付き合って4年目、1泊2日の旅行で、宿泊先の温泉旅館で2人は結ばれた。後先を考えなかった20代前半、その夜、布団の上で彼女と繋がっているときに、私はこの人と生涯を共にするのだな、と確信した。3か月経った頃だろうか、彼女から「妊娠したみたい」と言われた。妊娠を告げられた直後は、結婚がどういうものか、まったく考えていなかった。数週間後、彼女の家族と自分の家族に、彼女が妊娠したことと結婚したい、という旨を報告しに行くこととなった。

報告する当日、スーツに着替え彼女の家に到着する。玄関で挨拶をしたあと彼女の母親に居間へ通される。ホームドラマのように、彼女の父親が座ってテレビを観ている。彼女の父親がテレビを消しこちらに顔を向ける。居間に彼女の姉と祖母も現れ、私たちを見守る。私が「結婚させてください」と言ったら、彼女の父親が「娘を嫁がせるのか、あんたが婿養子に入るのかどっちだ」と訊いてきた。その時は「婿養子には入らないです」と返したが、いま彼女の父親くらいの年齢になって気が付いたのは、彼女の父親なりの冗談だったのではないかということ。彼女の父親は若かりし頃、暴走族のリーダーだった。夜な夜なバイクを乗り回し仲間を引き連れていた過去がある。そのことは結婚してから彼女の父親の姉に聞かされるのだが、硬派だった彼女の父親からすれば、軟派な私をどう思っていたのかは今となっては聞くことができない。それでも彼女の父親とはなんとなく波長が合った。酒が大好きな人だった。私が彼女の実家を訪ねるたびに宴となる。私も酒が好きなので彼女の父親は、プレミアのついた焼酎や清酒を取り寄せては飲ませてくれた。そんな兄のような彼女の父親。義理の父親だったが50代で癌が見つかった。ステージ4だった。見つかって半年でこの世を去ってしまった。癌と判明するほんの少し前の夏、庭で一緒に焼き肉を食べていたのだが、その時に喉の不調を訴えていた。まさか癌だったとは思いもよらなかった。それまで身内で癌になった人がいなかったので、本やネットで癌について調べたのはその時が初めてだった。亡くなる少し前に彼女の父親に子どもを預かってもらっていたので、挨拶しようと思ったが捜しても見当たらない。仕方がないので挨拶をしないで帰った。その後電話がかかってきて「挨拶もしないで帰るとは何事だ」と言って叱られたのが最後の言葉だった。最後くらい笑ってお別れしたかったが、最後に会ったのは自宅のベッドで呼吸をしているだけの状態だった。私より背が高くがっちりとした身体はやせ細り、もう骨と皮だけの姿になっていた。私が両手で右手を握ると温かかったが二度と目を開けることはなかった。

お義父さんと呼ばせてもらってから亡くなるまでの15年間、私の子供たちをとても可愛がってくれた。お義父さんは初孫の誕生にとても喜んでいた。特に娘にはメロメロで可愛がってくれたし、息子の誕生をとても喜んだ。なぜならお義父さんには息子がいないからだ。暴走族のリーダーは最期、孫たちにとっては優しくて何でも買ってくれる最高のおじいちゃんだった。65歳、「高齢者」と呼ばれる前に亡くなった。最期まで格好をつけたまま逝ってしまうなんて、彼らしい終わりだった。お義母さんは涙が枯れるまで泣き続けた。昔、看護師であったお義母さんはお義父さんの最期をその腕の中で看取ることができた。私は癌で死ぬのも悪くないと思った。なぜなら癌は余命がわかるから。事故やその他の病気では死に目に会うのは難しい。お義父さんとお義母さんは病院で知り合った。バイク事故で入院し看護師のお義母さんに一目惚れ。純愛だったそうだ。当時の悪友が葬式で話していたのを聞いた。喧嘩の絶えない夫婦で、殴られることもあったお義母さん。とにかく酒が大好きでお義母さんに面倒なことばかりかけていたお義父さん。出会いも別れもベッドの上だった。

妻はそんな義父の性格をそのまま受け継いだのではないかと思うくらいに豪快でわがままである。彼女は活発で中学で一緒にハンドボールをしていた。ショートカットで色黒で当時は私より背が高く頭も良かった。そんな彼女とは中学時代あまり会話をしたことがなかった。私には他に好きな人がいたからだ。中学を卒業して高校に入ってから、その好きな人と付き合うことができた。別々の高校になってお互いハンドボールをやっていたので、毎日練習でデートどころではなかった。市の大会で会うことができたくらいだろうか。次第に気持ちが離れていき、破局を迎えた。一方、今の妻も別の強豪校でハンドボールを続けていたので大会で遠くから見てはいた。しかしその時は全く彼女に興味は湧かなかったのである。じゃあどこで、どのタイミングで付き合うことになるのかはまだ後の話。高校1年のときにハンドボールでレギュラーとなり、先輩たちのおかげと運もあって県大会で優勝し、東北大会で準優勝し全国大会へ出場となった。全国大会では横浜の強豪校と対戦しトリプルスコアをつけられ、初戦で敗退となった。彼女(現在の妻)の方も全国大会に出場した。旅館が一緒で、宴会場で彼女の高校と一緒に朝飯と夕飯を食べた。同じ部活の男子校と女子校の唯一の接点といっても過言ではない。互いに異性の目を気にしながらの食事。その時私は、彼女のひとつ上の先輩が好みのタイプだったので、先輩しか見ていなかった。食事後、タコ部屋で男子どもが雑魚寝しながらやれ覗きに行こうだの、誰が好みかだの男子校生は四六時中、(少なくとも私の周りの男子は)女子のことを考えていて、妄想を膨らませているのである。

彼女(妻)との再開は高校を卒業して、私が1浪し大学に入学をする前の3月だったであろうか。彼女から手紙が届いたのである。当時大流行したプリントシール付きの手紙。女性から手紙が届くなんて小学校の年賀状以来である。今は携帯電話やSNSで好きな相手と直接連絡が取れる。昔は自宅に電話をすると彼女の親やきょうだいが出たあと、本人に繋いでもらっていた。本人が受話器を取ることは事前に約束していた時である。今となっては、あの緊張感を子ども達が味わえないのは少々もったいない気がする。ポケットベルは画期的だった。1年ほど使ってPHSを持つようになり、社会人になって携帯電話を持つようになるのだが、次第に携帯のeメールやショートメッセージへと遷移していく。Windows95が登場した時には興奮した。その時はまだテクノロジーという分野で日本が欧米に飲み込まれていくなんて思いもしなかった。手紙や葉書というアナログなものは次第に廃れていく。ただし、消えはしないだろう。今再びカセットテープやレコードがまた脚光を浴びるように。時代は常に回り巡るのだ。そんな彼女からの手紙に私のハートはすでに撃ち抜かれていたのだ。手紙の内容は覚えていないが彼女の体温が伝わってくるような文面だったことだけを覚えている。

東京で一人暮らし。大学から徒歩3分の場所に部屋を借りた。家賃3万5千円の四畳半。風呂トイレ付き。父親の知り合いのトラック運転手にお願いして、事前に買った冷蔵庫と洗濯機とテレビと布団と電話機を乗せて早朝出発し、昼に到着する。あけぼの荘102号室に搬入しドライバーに謝礼を渡し、見送った。ガスと電気が開通し近くの電気店で買ってきたペンダントライトを取り付ける。和室にぴったりなサイズとデザイン。約7、8万円で電話回線を通した部屋に電話機を繋いで彼女に電話をする。「今、東京に着いたよ。来週の日曜日ヒマだったら遊ぼうよ」と私からアプローチする。渋谷のハチ公前で待ち合わせ。初めてのスクランブル交差点はとても人が多かった。人の流れを計算して進行方向よりもマイナス方向に歩き出す。外国人がこの風景を見たくなるのも分かる気がした。初めての渋谷駅なのにハチ公出口には難なく到着できた。ハチ公の銅像の小ささにはびっくりした。道端で中古の週刊誌を売っていたり、募金箱を持った人がとにかくたくさんいて、1人で座っていたところにお世辞にもきれいとは言えない格好の小柄な女性が募金を求めてきた。財布から100円を取り出して渡した。そこに後ろから彼女が現れ、腕を掴み「怪しい募金だからあっちに行こう」とその場を離れた。渋谷のパルコ、東急ハンズ、ロフトなどで雑貨を見たあと、古着屋巡りをした。2人とも体育会系ということもあり、3本線の入ったジャージが好きだった。トレフォイルのマークが付いた上着を買った。東京はとにかく歩く。めちゃくちゃ足が痛くなったのを覚えている。田舎ではほとんど自転車で行動していたからだ。その後山手線で新宿へ。南口のミロードでパスタ屋に入り、彼女はタラコスパゲティ、私はペペロンチーノを食べた。食べるときに彼女がスプーンとフォークの両方を使って麺をくるくる巻いて食べるのよと教えてくれた。それから「森田一義アワー笑っていいとも」のオープニングでお馴染み、新宿アルタ前を通って資生堂パーラーや西口の京王百貨店で惣菜やスイーツを見たりして夕方になった。初デートということもあり、彼女を東急田園都市線渋谷駅まで見送った。帰宅してから彼女に電話して次は「夢の国」に行こうということになった。

渋谷駅で待ち合わせをして山手線で東京駅へ、そこから京葉線舞浜駅へ降り立った。ゲートには開場前にも関わらずものすごい人の数。売り場でチケットを買い入場した。夢の国。私はどちらかと言うと人に興味がある。昔から高校の部活帰りに駅のミスドやマックに立ち寄り、人間観察をする。もちろん可愛い子には目が行くのだが、それだけではなくて、その人の身に着けている服や靴に興味があった。私自身はファッションセンスが無いので、雑誌で研究したがブランド名を覚えただけでセンスは磨かれなかった。そもそもお金が無かった。夢の国では建築物や花壇が気になった。なぜ夢の国に人は惹きつけられるのか。だから楽しむ余裕はどこにもなかった。そんなこともあって、彼女との会話も何を話せばいいかわからないし、2人の写真を撮ってもらうために赤の他人に声を掛けることなんて、人見知りの私ができるわけがない。こんな調子だから彼女の表情も次第に曇っていき、怒らせてしまい、人の波をどんどんかき分けて行く彼女を見失ってしまった。というか、私は見失いたかったのだ。たぶん。当時は携帯電話がない。あるのはポケットベルのメッセージ機能。「イマドコ?」って送信しても返ってこない。見失って1時間経過した頃、一瞬、遠くで彼女のようなシルエット。慌てて追いかける。近づいていくと間違いなく彼女だった。彼女の左腕を掴み、私が「よかった、見つけた」というと、彼女は安堵の表情をする。外はすっかり暗くなりエレクトリカルパレードを観て、夢の国をあとにした。夢の国での喧嘩で彼女を見つけられなかった場合、結婚することもなかったのではないか。ものすごい人の数の中で彼女を見つけたあの時の自分に感謝しかない。ある時、そのエピソードを子供たちに話したら、2人らしい話だねと笑っていた。その事件の後、彼女が主導権をずっと握ることになるとは、あの時の自分には内緒にしておこう。

結婚して22年が経過しようとしている。仕事の都合で遠距離ふうふになっているが、仕事も順調だし(一時は収入が14万円になったがそれを乗り越え)、上の子はすでにパートナーと同棲中。孫が生まれるのもタイミングと時間の問題か。真ん中は大学生、ブログにも登場したSOS息子だ。彼は私と同じくお笑いとラジオ好き。幼稚園生の時は宇宙飛行士になりたいといい、小学生の時はヒカキンのようになりたいといい、今の夢は作家。末っ子は高校生。私と同じで女の子が大好き。去年彼女ができるもクリスマスを前に振られてしまった。造園業に興味があり、進学に興味はないという。同じように育てたはずだが、こうも性格が違うのかと驚く。例えば好きな食べ物がそれぞれ違う。でも面白いのは私の好きな食べ物が好きということ。これがDNAってやつなのだろうか。わたしも先祖代々何かを受け継いできたのかと思うと震える。家系図を遡っていくと調べられる範囲では、先祖は飛脚をやってたらしい。私も軽貨物とフードデリバリーをやっているので、親戚のおじさんに初めて家系のことを聞いてなんか笑ってしまった。妻のほうも中学の同級生なので、調べていくと遠い親戚らしい。まあそんな事を言ったら、人類みな兄弟のような話になってしまうのだが。3年後、彼女と新婚旅行に行く予定を立てた。ブラック企業で結婚式の前日と翌々日には仕事をしていた。そのため、新婚旅行には行ってない。というわけで、旅行資金として毎月5,000円を積み立てている。今からどこに行こうか考えるのが楽しい。彼女はカニが好きなので美味しいカニをたくさん食べさせたい。北海道か北陸かな。ちなみに私はそれほどでもないが刺し身は好きなので日本酒で一杯やりながら味わいたい。本当は3年前に行く予定だったはずの新婚旅行。いまからワクワクしている。つい最近、彼女が推している男性シンガーのライブが埼玉県の大宮で行われるとのことで、新幹線の東京行き指定席を自由席に変更し、大宮まで一緒に行くことになった。2人っきりで新幹線に乗るのは結婚してから初めてのことだった。

車に乗って駅へ向かう。特に喋ることもなく駅近くのパーキングに駐車する。田舎の駅(どれくらい田舎かというと、時間制限駐車区間という60分までいくらみたいな駐車スペースがあったのだが、土地が余りすぎていて駐車場が多く、実用性に乏しいということで、ずいぶん前に廃止された)ので24時間駐車しても1000円くらい。5分歩いて駅に到着すると、券売機で特急券と乗車券を購入する。Vカードのクレカで買うとポイントが貯まるので今回は私のVカードを使用する。2階の改札でスマホをかざし、彼女は発行された紙の乗車券で入る。私は毎月のように新幹線を利用するのでチケレットレスにしている。約1ヶ月前から申し込みができ。お得に購入できるので助かっている。ポイントも貯まってうれしい。駅コンビニでホットコーヒーを買う。セルフレジを使用し読み取り機にバーコードをかざし、あたかもデキる男を演じる。渾身のドヤ顔で。おそらくこの世で一番ヒドい顔に違いない。コンビニではエフマートが好きだ。だいたいセルフレジが設置してあって、昼時には並んでいる人を横目にそれを利用する。それに気づいたセルフレジ初心者は私のあとにそれを利用する。それを見てニヤリとする。コーヒーを抽出する機械が2台あって、それぞれにカップをセットし、ホットコーヒーのレギュラーボタンを押す。いつも思うのだが、コーヒーのサイズくらい統一しろよと思う。Sサイズ=レギュラーサイズ、レギュラーサイズもあって、Sサイズもあるコンビニ。じゃあこのレギュラーサイズは実質Mサイズやないかい!と、各コンビニのレジで注文するときにいちいち確認しなければならないのが面倒すぎる。KオスクでR天ポイントカードを提示してしまった気分や。コーヒーがカップに満たされ、待合室のソファで並んで座る。ひと口飲むと彼女が新幹線が入線しているか、乗車できるか見てきてほしいと言う。当駅始発の新幹線なので、出発時間のだいぶ前から乗車できるのだ。エスカレーターで上がるとそこには乗る予定の車両があったが、ドアは閉まっていた。まだ30分前なので、エスカレーターで下がって彼女の元へ。残りのコーヒーを飲む。彼女の横顔を見るとふだん見慣れない化粧をした妻がいる。顔のシミを上手にファンデーションとコンシーラーでカバーしている。私のためではなくライブ会場にいる彼のために。私のデートの時と比べて、化粧する時間は短かったであろうことを切に願う。私は嫉妬深い男なのだ。

コーヒーを飲み終えるとトイレに行き、それからエスカレーターに乗りいつの間にかドアが開いていた新幹線に乗り込み、二人がけの座席に座る。最近は座席の背もたれを倒す際に、「すみません、倒します」と言う人と私のように言わない人がいる。なぜ私が言わないかというと、言う必要性を感じないから。静かにゆっくり倒せば迷惑になるとは思わない。例えば勢いよくシートを倒したり、倒しすぎたりしたら迷惑だと思う。迷惑というか、不快だなと思う車内の行為はドスンと全体重を掛けたような座り方をする人。背もたれに付いているテーブルを使用しているときにドスンされると、飲み物がこぼれるからだ。想像力に欠ける人に罪はないと自分に言い聞かせる。定刻に新幹線が動き出す。妻の体温を左に感じながら、子供たちの成長や今日の夕方から始まるライブのこと、3年後の旅行など約1時間話した。遠距離で暮らしていると、一緒に住んでいた時は見えなかったこともお互い見えるようになり、ずいぶん支えられていたのだなということが、会話を通して改めて分かった。「愛とは信じること」と子供の頃、近所のお寺で、和尚さんが説法してくれたのをふいに思い出していた。やがて大宮駅に到着し、新幹線を降りた。彼女とのしばしの別れを悲しみながら背中を目で追った。

新幹線が再び動き出す。浮気ではないけど、やはり他の男に会い(観)に行くのは嫉妬してしまう。彼女は昔から私に対してベタベタする方ではない。私が一方的に彼女にスキンシップを求める。2人で買い物に行くときは本当はずっと手をつなぎたいが、結婚してからというもの未だに実現していない。恋人時代に手を繋いでくれたのは一体何だったのか、今となってはもしかすると幻だったのかもしれない。人前では絶対に仲の良いところを見せない彼女。今年の正月に彼女の実家に行くと、そこには義母と彼女のきょうだいとその子供たちが勢ぞろいしていたのだが、そこでも義母が「ビール飲む?」と訊いてきたので「ハイ、ごちそうになります」というと、妻は「自分でビール取ってきな」と冷たい態度。義母と彼女のきょうだいが皆、「うわー冷たーい」や「注いであげなよ」と苦笑いした。でもこれがデフォルトなので、私は「だいじょぶです」と言って同じく苦笑いするのだ。妻が私に冷たくするのは本当に冷たいのではなく、照れ隠しなのだ。しかしながら、夜の営みはというと、クイーンサイズのベッドで一緒に寝ている。妻はいつも体の右側を下にして横向きにして寝る。私も同じようにして彼女の背中にピッタリくっついて寝る。そして、いつものようにシャツの裾から手を入れて腹のほうから胸へ向かい胸をまんべんなく揉む。これは私が胸が好きだからではない(ちなみにお尻がいちばん好き)。しこりがないか確認しているのだ。触診といってもいいかもしれない。そして、うなじと頭の匂いを嗅ぐ。嫌がる様子がないときにはシャツの裾をまくしあげ背中を舐めていく。彼女はいつも感じる様子を見せないが、ごく稀に甘えて来ることがある。どうして分かるのかと言うと、ふだんはむこうを向いているが、甘えている時はこちら向きになり、私の右胸の上に頭を乗せてくるのだ。めったに無いことなので、私にとってそれはもう人生の1番の幸福である。このまま死んでもいいやと思えるが、それはできない。私は、彼女よりも先に死ねないのだ。なぜかというと彼女を残して死んでしまったら一体誰が彼女を愛してくれるだろうか。いや私しか愛せない。彼女の魅力を誰よりも知り、伝えられるのは世界中で私しかいないのだから。

きみとこのまま9

「私はひとりでは生きられない。そう悟って、大学卒業と同時に結婚した」そう言えたのなら、格好はつくのだが、いわゆる授かり婚だ。彼女と付き合って4年目、1泊2日の旅行で、宿泊先の温泉旅館で2人は結ばれた。後先を考えなかった20代前半、その夜、布団の上で彼女と繋がっているときに、私はこの人と生涯を共にするのだな、と確信した。3か月経った頃だろうか、彼女から「妊娠したみたい」と言われた。妊娠を告げられた直後は、結婚がどういうものか、まったく考えていなかった。数週間後、彼女の家族と自分の家族に、彼女が妊娠したことと結婚したい、という旨を報告しに行くこととなった。

報告する当日、スーツに着替え彼女の家に到着する。玄関で挨拶をしたあと彼女の母親に居間へ通される。ホームドラマのように、彼女の父親が座ってテレビを観ている。彼女の父親がテレビを消しこちらに顔を向ける。居間に彼女の姉と祖母も現れ、私たちを見守る。私が「結婚させてください」と言ったら、彼女の父親が「娘を嫁がせるのか、あんたが婿養子に入るのかどっちだ」と訊いてきた。その時は「婿養子には入らないです」と返したが、いま彼女の父親くらいの年齢になって気が付いたのは、彼女の父親なりの冗談だったのではないかということ。彼女の父親は若かりし頃、暴走族のリーダーだった。夜な夜なバイクを乗り回し仲間を引き連れていた過去がある。そのことは結婚してから彼女の父親の姉に聞かされるのだが、硬派だった彼女の父親からすれば、軟派な私をどう思っていたのかは今となっては聞くことができない。それでも彼女の父親とはなんとなく波長が合った。酒が大好きな人だった。私が彼女の実家を訪ねるたびに宴となる。私も酒が好きなので彼女の父親は、プレミアのついた焼酎や清酒を取り寄せては飲ませてくれた。そんな兄のような彼女の父親。義理の父親だったが50代で癌が見つかった。ステージ4だった。見つかって半年でこの世を去ってしまった。癌と判明するほんの少し前の夏、庭で一緒に焼き肉を食べていたのだが、その時に喉の不調を訴えていた。まさか癌だったとは思いもよらなかった。それまで身内で癌になった人がいなかったので、本やネットで癌について調べたのはその時が初めてだった。亡くなる少し前に彼女の父親に子どもを預かってもらっていたので、挨拶しようと思ったが捜しても見当たらない。仕方がないので挨拶をしないで帰った。その後電話がかかってきて「挨拶もしないで帰るとは何事だ」と言って叱られたのが最後の言葉だった。最後くらい笑ってお別れしたかったが、最後に会ったのは自宅のベッドで呼吸をしているだけの状態だった。私より背が高くがっちりとした身体はやせ細り、もう骨と皮だけの姿になっていた。私が両手で右手を握ると温かかったが二度と目を開けることはなかった。

お義父さんと呼ばせてもらってから亡くなるまでの15年間、私の子供たちをとても可愛がってくれた。お義父さんは初孫の誕生にとても喜んでいた。特に娘にはメロメロで可愛がってくれたし、息子の誕生をとても喜んだ。なぜならお義父さんには息子がいないからだ。暴走族のリーダーは最期、孫たちにとっては優しくて何でも買ってくれる最高のおじいちゃんだった。65歳、「高齢者」と呼ばれる前に亡くなった。最期まで格好をつけたまま逝ってしまうなんて、彼らしい終わりだった。お義母さんは涙が枯れるまで泣き続けた。昔、看護師であったお義母さんはお義父さんの最期をその腕の中で看取ることができた。私は癌で死ぬのも悪くないと思った。なぜなら癌は余命がわかるから。事故やその他の病気では死に目に会うのは難しい。お義父さんとお義母さんは病院で知り合った。バイク事故で入院し看護師のお義母さんに一目惚れ。純愛だったそうだ。当時の悪友が葬式で話していたのを聞いた。喧嘩の絶えない夫婦で、殴られることもあったお義母さん。とにかく酒が大好きでお義母さんに面倒なことばかりかけていたお義父さん。出会いも別れもベッドの上だった。

妻はそんな義父の性格をそのまま受け継いだのではないかと思うくらいに豪快でわがままである。彼女は活発で中学で一緒にハンドボールをしていた。ショートカットで色黒で当時は私より背が高く頭も良かった。そんな彼女とは中学時代あまり会話をしたことがなかった。私には他に好きな人がいたからだ。中学を卒業して高校に入ってから、その好きな人と付き合うことができた。別々の高校になってお互いハンドボールをやっていたので、毎日練習でデートどころではなかった。市の大会で会うことができたくらいだろうか。次第に気持ちが離れていき、破局を迎えた。一方、今の妻も別の強豪校でハンドボールを続けていたので大会で遠くから見てはいた。しかしその時は全く彼女に興味は湧かなかったのである。じゃあどこで、どのタイミングで付き合うことになるのかはまだ後の話。高校1年のときにハンドボールでレギュラーとなり、先輩たちのおかげと運もあって県大会で優勝し、東北大会で準優勝し全国大会へ出場となった。全国大会では横浜の強豪校と対戦しトリプルスコアをつけられ、初戦で敗退となった。彼女(現在の妻)の方も全国大会に出場した。旅館が一緒で、宴会場で彼女の高校と一緒に朝飯と夕飯を食べた。同じ部活の男子校と女子校の唯一の接点といっても過言ではない。互いに異性の目を気にしながらの食事。その時私は、彼女のひとつ上の先輩が好みのタイプだったので、先輩しか見ていなかった。食事後、タコ部屋で男子どもが雑魚寝しながらやれ覗きに行こうだの、誰が好みかだの男子校生は四六時中、(少なくとも私の周りの男子は)女子のことを考えていて、妄想を膨らませているのである。

彼女(妻)との再開は高校を卒業して、私が1浪し大学に入学をする前の3月だったであろうか。彼女から手紙が届いたのである。当時大流行したプリントシール付きの手紙。女性から手紙が届くなんて小学校の年賀状以来である。今は携帯電話やSNSで好きな相手と直接連絡が取れる。昔は自宅に電話をすると彼女の親やきょうだいが出たあと、本人に繋いでもらっていた。本人が受話器を取ることは事前に約束していた時である。今となっては、あの緊張感を子ども達が味わえないのは少々もったいない気がする。ポケットベルは画期的だった。1年ほど使ってPHSを持つようになり、社会人になって携帯電話を持つようになるのだが、次第に携帯のeメールやショートメッセージへと遷移していく。Windows95が登場した時には興奮した。その時はまだテクノロジーという分野で日本が欧米に飲み込まれていくなんて思いもしなかった。手紙や葉書というアナログなものは次第に廃れていく。ただし、消えはしないだろう。今再びカセットテープやレコードがまた脚光を浴びるように。時代は常に回り巡るのだ。そんな彼女からの手紙に私のハートはすでに撃ち抜かれていたのだ。手紙の内容は覚えていないが彼女の体温が伝わってくるような文面だったことだけを覚えている。

東京で一人暮らし。大学から徒歩3分の場所に部屋を借りた。家賃3万5千円の四畳半。風呂トイレ付き。父親の知り合いのトラック運転手にお願いして、事前に買った冷蔵庫と洗濯機とテレビと布団と電話機を乗せて早朝出発し、昼に到着する。あけぼの荘102号室に搬入しドライバーに謝礼を渡し、見送った。ガスと電気が開通し近くの電気店で買ってきたペンダントライトを取り付ける。和室にぴったりなサイズとデザイン。約7、8万円で電話回線を通した部屋に電話機を繋いで彼女に電話をする。「今、東京に着いたよ。来週の日曜日ヒマだったら遊ぼうよ」と私からアプローチする。渋谷のハチ公前で待ち合わせ。初めてのスクランブル交差点はとても人が多かった。人の流れを計算して進行方向よりもマイナス方向に歩き出す。外国人がこの風景を見たくなるのも分かる気がした。初めての渋谷駅なのにハチ公出口には難なく到着できた。ハチ公の銅像の小ささにはびっくりした。道端で中古の週刊誌を売っていたり、募金箱を持った人がとにかくたくさんいて、1人で座っていたところにお世辞にもきれいとは言えない格好の小柄な女性が募金を求めてきた。財布から100円を取り出して渡した。そこに後ろから彼女が現れ、腕を掴み「怪しい募金だからあっちに行こう」とその場を離れた。渋谷のパルコ、東急ハンズ、ロフトなどで雑貨を見たあと、古着屋巡りをした。2人とも体育会系ということもあり、3本線の入ったジャージが好きだった。トレフォイルのマークが付いた上着を買った。東京はとにかく歩く。めちゃくちゃ足が痛くなったのを覚えている。田舎ではほとんど自転車で行動していたからだ。その後山手線で新宿へ。南口のミロードでパスタ屋に入り、彼女はタラコスパゲティ、私はペペロンチーノを食べた。食べるときに彼女がスプーンとフォークの両方を使って麺をくるくる巻いて食べるのよと教えてくれた。それから「森田一義アワー笑っていいとも」のオープニングでお馴染み、新宿アルタ前を通って資生堂パーラーや西口の京王百貨店で惣菜やスイーツを見たりして夕方になった。初デートということもあり、彼女を東急田園都市線渋谷駅まで見送った。帰宅してから彼女に電話して次は「夢の国」に行こうということになった。

渋谷駅で待ち合わせをして山手線で東京駅へ、そこから京葉線舞浜駅へ降り立った。ゲートには開場前にも関わらずものすごい人の数。売り場でチケットを買い入場した。夢の国。私はどちらかと言うと人に興味がある。昔から高校の部活帰りに駅のミスドやマックに立ち寄り、人間観察をする。もちろん可愛い子には目が行くのだが、それだけではなくて、その人の身に着けている服や靴に興味があった。私自身はファッションセンスが無いので、雑誌で研究したがブランド名を覚えただけでセンスは磨かれなかった。そもそもお金が無かった。夢の国では建築物や花壇が気になった。なぜ夢の国に人は惹きつけられるのか。だから楽しむ余裕はどこにもなかった。そんなこともあって、彼女との会話も何を話せばいいかわからないし、2人の写真を撮ってもらうために赤の他人に声を掛けることなんて、人見知りの私ができるわけがない。こんな調子だから彼女の表情も次第に曇っていき、怒らせてしまい、人の波をどんどんかき分けて行く彼女を見失ってしまった。というか、私は見失いたかったのだ。たぶん。当時は携帯電話がない。あるのはポケットベルのメッセージ機能。「イマドコ?」って送信しても返ってこない。見失って1時間経過した頃、一瞬、遠くで彼女のようなシルエット。慌てて追いかける。近づいていくと間違いなく彼女だった。彼女の左腕を掴み、私が「よかった、見つけた」というと、彼女は安堵の表情をする。外はすっかり暗くなりエレクトリカルパレードを観て、夢の国をあとにした。夢の国での喧嘩で彼女を見つけられなかった場合、結婚することもなかったのではないか。ものすごい人の数の中で彼女を見つけたあの時の自分に感謝しかない。ある時、そのエピソードを子供たちに話したら、2人らしい話だねと笑っていた。その事件の後、彼女が主導権をずっと握ることになるとは、あの時の自分には内緒にしておこう。

結婚して22年が経過しようとしている。仕事の都合で遠距離ふうふになっているが、仕事も順調だし(一時は収入が14万円になったがそれを乗り越え)、上の子はすでにパートナーと同棲中。孫が生まれるのもタイミングと時間の問題か。真ん中は大学生、ブログにも登場したSOS息子だ。彼は私と同じくお笑いとラジオ好き。幼稚園生の時は宇宙飛行士になりたいといい、小学生の時はヒカキンのようになりたいといい、今の夢は作家。末っ子は高校生。私と同じで女の子が大好き。去年彼女ができるもクリスマスを前に振られてしまった。造園業に興味があり、進学に興味はないという。同じように育てたはずだが、こうも性格が違うのかと驚く。例えば好きな食べ物がそれぞれ違う。でも面白いのは私の好きな食べ物が好きということ。これがDNAってやつなのだろうか。わたしも先祖代々何かを受け継いできたのかと思うと震える。家系図を遡っていくと調べられる範囲では、先祖は飛脚をやってたらしい。私も軽貨物とフードデリバリーをやっているので、親戚のおじさんに初めて家系のことを聞いてなんか笑ってしまった。妻のほうも中学の同級生なので、調べていくと遠い親戚らしい。まあそんな事を言ったら、人類みな兄弟のような話になってしまうのだが。3年後、彼女と新婚旅行に行く予定を立てた。ブラック企業で結婚式の前日と翌々日には仕事をしていた。そのため、新婚旅行には行ってない。というわけで、旅行資金として毎月5,000円を積み立てている。今からどこに行こうか考えるのが楽しい。彼女はカニが好きなので美味しいカニをたくさん食べさせたい。北海道か北陸かな。ちなみに私はそれほどでもないが刺し身は好きなので日本酒で一杯やりながら味わいたい。本当は3年前に行く予定だったはずの新婚旅行。いまからワクワクしている。つい最近、彼女が推している男性シンガーのライブが埼玉県の大宮で行われるとのことで、新幹線の東京行き指定席を自由席に変更し、大宮まで一緒に行くことになった。2人っきりで新幹線に乗るのは結婚してから初めてのことだった。

車に乗って駅へ向かう。特に喋ることもなく駅近くのパーキングに駐車する。田舎の駅(どれくらい田舎かというと、時間制限駐車区間という60分までいくらみたいな駐車スペースがあったのだが、土地が余りすぎていて駐車場が多く、実用性に乏しいということで、ずいぶん前に廃止された)ので24時間駐車しても1000円くらい。5分歩いて駅に到着すると、券売機で特急券と乗車券を購入する。Vカードのクレカで買うとポイントが貯まるので今回は私のVカードを使用する。2階の改札でスマホをかざし、彼女は発行された紙の乗車券で入る。私は毎月のように新幹線を利用するのでチケレットレスにしている。約1ヶ月前から申し込みができ。お得に購入できるので助かっている。ポイントも貯まってうれしい。駅コンビニでホットコーヒーを買う。セルフレジを使用し読み取り機にバーコードをかざし、あたかもデキる男を演じる。渾身のドヤ顔で。おそらくこの世で一番ヒドい顔に違いない。コンビニではエフマートが好きだ。だいたいセルフレジが設置してあって、昼時には並んでいる人を横目にそれを利用する。それに気づいたセルフレジ初心者は私のあとにそれを利用する。それを見てニヤリとする。コーヒーを抽出する機械が2台あって、それぞれにカップをセットし、ホットコーヒーのレギュラーボタンを押す。いつも思うのだが、コーヒーのサイズくらい統一しろよと思う。Sサイズ=レギュラーサイズ、レギュラーサイズもあって、Sサイズもあるコンビニ。じゃあこのレギュラーサイズは実質Mサイズやないかい!と、各コンビニのレジで注文するときにいちいち確認しなければならないのが面倒すぎる。KオスクでR天ポイントカードを提示してしまった気分や。コーヒーがカップに満たされ、待合室のソファで並んで座る。ひと口飲むと彼女が新幹線が入線しているか、乗車できるか見てきてほしいと言う。当駅始発の新幹線なので、出発時間のだいぶ前から乗車できるのだ。エスカレーターで上がるとそこには乗る予定の車両があったが、ドアは閉まっていた。まだ30分前なので、エスカレーターで下がって彼女の元へ。残りのコーヒーを飲む。彼女の横顔を見るとふだん見慣れない化粧をした妻がいる。顔のシミを上手にファンデーションとコンシーラーでカバーしている。私のためではなくライブ会場にいる彼のために。私のデートの時と比べて、化粧する時間は短かったであろうことを切に願う。私は嫉妬深い男なのだ。

コーヒーを飲み終えるとトイレに行き、それからエスカレーターに乗りいつの間にかドアが開いていた新幹線に乗り込み、二人がけの座席に座る。最近は座席の背もたれを倒す際に、「すみません、倒します」と言う人と私のように言わない人がいる。なぜ私が言わないかというと、言う必要性を感じないから。静かにゆっくり倒せば迷惑になるとは思わない。例えば勢いよくシートを倒したり、倒しすぎたりしたら迷惑だと思う。迷惑というか、不快だなと思う車内の行為はドスンと全体重を掛けたような座り方をする人。背もたれに付いているテーブルを使用しているときにドスンされると、飲み物がこぼれるからだ。想像力に欠ける人に罪はないと自分に言い聞かせる。定刻に新幹線が動き出す。妻の体温を左に感じながら、子供たちの成長や今日の夕方から始まるライブのこと、3年後の旅行など約1時間話した。遠距離で暮らしていると、一緒に住んでいた時は見えなかったこともお互い見えるようになり、ずいぶん支えられていたのだなということが、会話を通して改めて分かった。「愛とは信じること」と子供の頃、小学生のころ近所のお寺で、和尚さんが説法してくれたのをふいに思い出していた。やがて大宮駅に到着し、新幹線を降りた。彼女とのしばしの別れを悲しみながら背中を目で追った。

きみとこのまま8

「私はひとりでは生きられない。そう悟って、大学卒業と同時に結婚した」そう言えたのなら、格好はつくのだが、いわゆる授かり婚だ。彼女と付き合って4年目、1泊2日の旅行で、宿泊先の温泉旅館で2人は結ばれた。後先を考えなかった20代前半、その夜、布団の上で彼女と繋がっているときに、私はこの人と生涯を共にするのだな、と確信した。3か月経った頃だろうか、彼女から「妊娠したみたい」と言われた。妊娠を告げられた直後は、結婚がどういうものか、まったく考えていなかった。数週間後、彼女の家族と自分の家族に、彼女が妊娠したことと結婚したい、という旨を報告しに行くこととなった。

報告する当日、スーツに着替え彼女の家に到着する。玄関で挨拶をしたあと彼女の母親に居間へ通される。ホームドラマのように、彼女の父親が座ってテレビを観ている。彼女の父親がテレビを消しこちらに顔を向ける。居間に彼女の姉と祖母も現れ、私たちを見守る。私が「結婚させてください」と言ったら、彼女の父親が「娘を嫁がせるのか、あんたが婿養子に入るのかどっちだ」と訊いてきた。その時は「婿養子には入らないです」と返したが、いま彼女の父親くらいの年齢になって気が付いたのは、彼女の父親なりの冗談だったのではないかということ。彼女の父親は若かりし頃、暴走族のリーダーだった。夜な夜なバイクを乗り回し仲間を引き連れていた過去がある。そのことは結婚してから彼女の父親の姉に聞かされるのだが、硬派だった彼女の父親からすれば、軟派な私をどう思っていたのかは今となっては聞くことができない。それでも彼女の父親とはなんとなく波長が合った。酒が大好きな人だった。私が彼女の実家を訪ねるたびに宴となる。私も酒が好きなので彼女の父親は、プレミアのついた焼酎や清酒を取り寄せては飲ませてくれた。そんな兄のような彼女の父親。義理の父親だったが50代で癌が見つかった。ステージ4だった。見つかって半年でこの世を去ってしまった。癌と判明するほんの少し前の夏、庭で一緒に焼き肉を食べていたのだが、その時に喉の不調を訴えていた。まさか癌だったとは思いもよらなかった。それまで身内で癌になった人がいなかったので、本やネットで癌について調べたのはその時が初めてだった。亡くなる少し前に彼女の父親に子どもを預かってもらっていたので、挨拶しようと思ったが捜しても見当たらない。仕方がないので挨拶をしないで帰った。その後電話がかかってきて「挨拶もしないで帰るとは何事だ」と言って叱られたのが最後の言葉だった。最後くらい笑ってお別れしたかったが、最後に会ったのは自宅のベッドで呼吸をしているだけの状態だった。私より背が高くがっちりとした身体はやせ細り、もう骨と皮だけの姿になっていた。私が両手で右手を握ると温かかったが二度と目を開けることはなかった。

お義父さんと呼ばせてもらってから亡くなるまでの15年間、私の子供たちをとても可愛がってくれた。お義父さんは初孫の誕生にとても喜んでいた。特に娘にはメロメロで可愛がってくれたし、息子の誕生をとても喜んだ。なぜならお義父さんには息子がいないからだ。暴走族のリーダーは最期、孫たちにとっては優しくて何でも買ってくれる最高のおじいちゃんだった。65歳、「高齢者」と呼ばれる前に亡くなった。最期まで格好をつけたまま逝ってしまうなんて、彼らしい終わりだった。お義母さんは涙が枯れるまで泣き続けた。昔、看護師であったお義母さんはお義父さんの最期をその腕の中で看取ることができた。私は癌で死ぬのも悪くないと思った。なぜなら癌は余命がわかるから。事故やその他の病気では死に目に会うのは難しい。お義父さんとお義母さんは病院で知り合った。バイク事故で入院し看護師のお義母さんに一目惚れ。純愛だったそうだ。当時の悪友が葬式で話していたのを聞いた。喧嘩の絶えない夫婦で、殴られることもあったお義母さん。とにかく酒が大好きでお義母さんに面倒なことばかりかけていたお義父さん。出会いも別れもベッドの上だった。

妻はそんな義父の性格をそのまま受け継いだのではないかと思うくらいに豪快でわがままである。彼女は活発で中学で一緒にハンドボールをしていた。ショートカットで色黒で当時は私より背が高く頭も良かった。そんな彼女とは中学時代あまり会話をしたことがなかった。私には他に好きな人がいたからだ。中学を卒業して高校に入ってから、その好きな人と付き合うことができた。別々の高校になってお互いハンドボールをやっていたので、毎日練習でデートどころではなかった。市の大会で会うことができたくらいだろうか。次第に気持ちが離れていき、破局を迎えた。一方、今の妻も別の強豪校でハンドボールを続けていたので大会で遠くから見てはいた。しかしその時は全く彼女に興味は湧かなかったのである。じゃあどこで、どのタイミングで付き合うことになるのかはまだ後の話。高校1年のときにハンドボールでレギュラーとなり、先輩たちのおかげと運もあって県大会で優勝し、東北大会で準優勝し全国大会へ出場となった。全国大会では横浜の強豪校と対戦しトリプルスコアをつけられ、初戦で敗退となった。彼女(現在の妻)の方も全国大会に出場した。旅館が一緒で、宴会場で彼女の高校と一緒に朝飯と夕飯を食べた。同じ部活の男子校と女子校の唯一の接点といっても過言ではない。互いに異性の目を気にしながらの食事。その時私は、彼女のひとつ上の先輩が好みのタイプだったので、先輩しか見ていなかった。食事後、タコ部屋で男子どもが雑魚寝しながらやれ覗きに行こうだの、誰が好みかだの男子校生は四六時中、(少なくとも私の周りの男子は)女子のことを考えていて、妄想を膨らませているのである。

彼女(妻)との再開は高校を卒業して、私が1浪し大学に入学をする前の3月だったであろうか。彼女から手紙が届いたのである。当時大流行したプリントシール付きの手紙。女性から手紙が届くなんて小学校の年賀状以来である。今は携帯電話やSNSで好きな相手と直接連絡が取れる。昔は自宅に電話をすると彼女の親やきょうだいが出たあと、本人に繋いでもらっていた。本人が受話器を取ることは事前に約束していた時である。今となっては、あの緊張感を子ども達が味わえないのは少々もったいない気がする。ポケットベルは画期的だった。1年ほど使ってPHSを持つようになり、社会人になって携帯電話を持つようになるのだが、次第に携帯のeメールやショートメッセージへと遷移していく。Windows95が登場した時には興奮した。その時はまだテクノロジーという分野で日本が欧米に飲み込まれていくなんて思いもしなかった。手紙や葉書というアナログなものは次第に廃れていく。ただし、消えはしないだろう。今再びカセットテープやレコードがまた脚光を浴びるように。時代は常に回り巡るのだ。そんな彼女からの手紙に私のハートはすでに撃ち抜かれていたのだ。手紙の内容は覚えていないが彼女の体温が伝わってくるような文面だったことだけを覚えている。

東京で一人暮らし。大学から徒歩3分の場所に部屋を借りた。家賃3万5千円の四畳半。風呂トイレ付き。父親の知り合いのトラック運転手にお願いして、事前に買った冷蔵庫と洗濯機とテレビと布団と電話機を乗せて早朝出発し、昼に到着する。あけぼの荘102号室に搬入しドライバーに謝礼を渡し、見送った。ガスと電気が開通し近くの電気店で買ってきたペンダントライトを取り付ける。和室にぴったりなサイズとデザイン。約7、8万円で電話回線を通した部屋に電話機を繋いで彼女に電話をする。「今、東京に着いたよ。来週の日曜日ヒマだったら遊ぼうよ」と私からアプローチする。渋谷のハチ公前で待ち合わせ。初めてのスクランブル交差点はとても人が多かった。人の流れを計算して進行方向よりもマイナス方向に歩き出す。外国人がこの風景を見たくなるのも分かる気がした。初めての渋谷駅なのにハチ公出口には難なく到着できた。ハチ公の銅像の小ささにはびっくりした。道端で中古の週刊誌を売っていたり、募金箱を持った人がとにかくたくさんいて、1人で座っていたところにお世辞にもきれいとは言えない格好の小柄な女性が募金を求めてきた。財布から100円を取り出して渡した。そこに後ろから彼女が現れ、腕を掴み「怪しい募金だからあっちに行こう」とその場を離れた。渋谷のパルコ、東急ハンズ、ロフトなどで雑貨を見たあと、古着屋巡りをした。2人とも体育会系ということもあり、3本線の入ったジャージが好きだった。トレフォイルのマークが付いた上着を買った。東京はとにかく歩く。めちゃくちゃ足が痛くなったのを覚えている。田舎ではほとんど自転車で行動していたからだ。その後山手線で新宿へ。南口のミロードでパスタ屋に入り、彼女はタラコスパゲティ、私はペペロンチーノを食べた。食べるときに彼女がスプーンとフォークの両方を使って麺をくるくる巻いて食べるのよと教えてくれた。それから「森田一義アワー笑っていいとも」のオープニングでお馴染み、新宿アルタ前を通って資生堂パーラーや西口の京王百貨店で惣菜やスイーツを見たりして夕方になった。初デートということもあり、彼女を東急田園都市線渋谷駅まで見送った。帰宅してから彼女に電話して次は「夢の国」に行こうということになった。

渋谷駅で待ち合わせをして山手線で東京駅へ、そこから京葉線舞浜駅へ降り立った。ゲートには開場前にも関わらずものすごい人の数。売り場でチケットを買い入場した。夢の国。私はどちらかと言うと人に興味がある。昔から高校の部活帰りに駅のミスドやマックに立ち寄り、人間観察をする。もちろん可愛い子には目が行くのだが、それだけではなくて、その人の身に着けている服や靴に興味があった。私自身はファッションセンスが無いので、雑誌で研究したがブランド名を覚えただけでセンスは磨かれなかった。そもそもお金が無かった。夢の国では建築物や花壇が気になった。なぜ夢の国に人は惹きつけられるのか。だから楽しむ余裕はどこにもなかった。そんなこともあって、彼女との会話も何を話せばいいかわからないし、2人の写真を撮ってもらうために赤の他人に声を掛けることなんて、人見知りの私ができるわけがない。こんな調子だから彼女の表情も次第に曇っていき、怒らせてしまい、人の波をどんどんかき分けて行く彼女を見失ってしまった。というか、私は見失いたかったのだ。たぶん。当時は携帯電話がない。あるのはポケットベルのメッセージ機能。「イマドコ?」って送信しても返ってこない。見失って1時間経過した頃、一瞬、遠くで彼女のようなシルエット。慌てて追いかける。近づいていくと間違いなく彼女だった。彼女の左腕を掴み、私が「よかった、見つけた」というと、彼女は安堵の表情をする。外はすっかり暗くなりエレクトリカルパレードを観て、夢の国をあとにした。夢の国での喧嘩で彼女を見つけられなかった場合、結婚することもなかったのではないか。ものすごい人の数の中で彼女を見つけたあの時の自分に感謝しかない。ある時、そのエピソードを子供たちに話したら、2人らしい話だねと笑っていた。その事件の後、彼女が主導権をずっと握ることになるとは、あの時の自分には内緒にしておこう。

結婚して22年が経過しようとしている。仕事の都合で遠距離ふうふになっているが、仕事も順調だし(一時は収入が14万円になったがそれを乗り越え)、上の子はすでにパートナーと同棲中。孫が生まれるのもタイミングと時間の問題か。真ん中は大学生、ブログにも登場したSOS息子だ。彼は私と同じくお笑いとラジオ好き。幼稚園生の時は宇宙飛行士になりたいといい、小学生の時はヒカキンのようになりたいといい、今の夢は作家。末っ子は高校生。私と同じで女の子が大好き。去年彼女ができるもクリスマスを前に振られてしまった。造園業に興味があり、進学に興味はないという。同じように育てたはずだが、こうも性格が違うのかと驚く。例えば好きな食べ物がそれぞれ違う。でも面白いのは私の好きな食べ物が好きということ。これがDNAってやつなのだろうか。わたしも先祖代々何かを受け継いできたのかと思うと震える。家系図を遡っていくと調べられる範囲では、先祖は飛脚をやってたらしい。私も軽貨物とフードデリバリーをやっているので、親戚のおじさんに初めて家系のことを聞いてなんか笑ってしまった。妻のほうも中学の同級生なので、調べていくと遠い親戚らしい。まあそんな事を言ったら、人類みな兄弟のような話になってしまうのだが。3年後、彼女と新婚旅行に行く予定を立てた。ブラック企業で結婚式の前日と翌々日には仕事をしていた。そのため、新婚旅行には行ってない。というわけで、旅行資金として毎月5,000円を積み立てている。今からどこに行こうか考えるのが楽しい。彼女はカニが好きなので美味しいカニをたくさん食べさせたい。北海道か北陸かな。ちなみに私はそれほどでもないが刺し身は好きなので日本酒で一杯やりながら味わいたい。本当は3年前に行く予定だったはずの新婚旅行。いまからワクワクしている。つい最近、彼女が推している男性シンガーのライブが埼玉県の大宮で行われるとのことで、新幹線の東京行き指定席を自由席に変更し、大宮まで一緒に行くことになった。2人っきりで新幹線に乗るのは結婚してから初めてのことだった。

車に乗って駅へ向かう。特に喋ることもなく駅近くのパーキングに駐車する。田舎の駅(どれくらい田舎かというと、時間制限駐車区間という60分までいくらみたいな駐車スペースがあったのだが、土地が余りすぎていて駐車場が多く、実用性に乏しいということで、ずいぶん前に廃止された)ので24時間駐車しても1000円くらい。5分歩いて駅に到着すると、券売機で特急券と乗車券を購入する。Vカードのクレカで買うとポイントが貯まるので今回は私のVカードを使用する。2階の改札でスマホをかざし、彼女は発行された紙の乗車券で入る。私は毎月のように新幹線を利用するのでチケレットレスにしている。約1ヶ月前から申し込みができ。お得に購入できるので助かっている。ポイントも貯まってうれしい。駅コンビニでホットコーヒーを買う。セルフレジを使用し読み取り機にバーコードをかざし、あたかもデキる男を演じる。渾身のドヤ顔で。おそらくこの世で一番ヒドい顔に違いない。コンビニではエフマートが好きだ。だいたいセルフレジが設置してあって、昼時には並んでいる人を横目にそれを利用する。それに気づいたセルフレジ初心者は私のあとにそれを利用する。それを見てニヤリとする。コーヒーを抽出する機械が2台あって、それぞれにカップをセットし、ホットコーヒーのレギュラーボタンを押す。いつも思うのだが、コーヒーのサイズくらい統一しろよと思う。Sサイズ=レギュラーサイズ、レギュラーサイズもあって、Sサイズもあるコンビニ。じゃあこのレギュラーサイズは実質Mサイズやないかい!と、各コンビニのレジで注文するときにいちいち確認しなければならないのが面倒すぎる。KオスクでR天ポイントカードを提示してしまった気分や。コーヒーがカップに満たされ、待合室のソファで並んで座る。ひと口飲むと彼女が新幹線が入線しているか、乗車できるか見てきてほしいと言う。当駅始発の新幹線なので、出発時間のだいぶ前から乗車できるのだ。エスカレーターで上がるとそこには乗る予定の車両があったが、ドアは閉まっていた。まだ30分前なので、エスカレーターで下がって彼女の元へ。残りのコーヒーを飲む。彼女の横顔を見るとふだん見慣れない化粧をした妻がいる。顔のシミを上手にファンデーションとコンシーラーでカバーしている。私のためではなくライブ会場にいる彼のために。私のデートの時と比べて、化粧する時間は短かったであろうことを切に願う。私は嫉妬深い男なのだ。

きみとこのまま7

「私はひとりでは生きられない。そう悟って、大学卒業と同時に結婚した」そう言えたのなら、格好はつくのだが、いわゆる授かり婚だ。彼女と付き合って4年目、1泊2日の旅行で、宿泊先の温泉旅館で2人は結ばれた。後先を考えなかった20代前半、その夜、布団の上で彼女と繋がっているときに、私はこの人と生涯を共にするのだな、と確信した。3か月経った頃だろうか、彼女から「妊娠したみたい」と言われた。妊娠を告げられた直後は、結婚がどういうものか、まったく考えていなかった。数週間後、彼女の家族と自分の家族に、彼女が妊娠したことと結婚したい、という旨を報告しに行くこととなった。

報告する当日、スーツに着替え彼女の家に到着する。玄関で挨拶をしたあと彼女の母親に居間へ通される。ホームドラマのように、彼女の父親が座ってテレビを観ている。彼女の父親がテレビを消しこちらに顔を向ける。居間に彼女の姉と祖母も現れ、私たちを見守る。私が「結婚させてください」と言ったら、彼女の父親が「娘を嫁がせるのか、あんたが婿養子に入るのかどっちだ」と訊いてきた。その時は「婿養子には入らないです」と返したが、いま彼女の父親くらいの年齢になって気が付いたのは、彼女の父親なりの冗談だったのではないかということ。彼女の父親は若かりし頃、暴走族のリーダーだった。夜な夜なバイクを乗り回し仲間を引き連れていた過去がある。そのことは結婚してから彼女の父親の姉に聞かされるのだが、硬派だった彼女の父親からすれば、軟派な私をどう思っていたのかは今となっては聞くことができない。それでも彼女の父親とはなんとなく波長が合った。酒が大好きな人だった。私が彼女の実家を訪ねるたびに宴となる。私も酒が好きなので彼女の父親は、プレミアのついた焼酎や清酒を取り寄せては飲ませてくれた。そんな兄のような彼女の父親。義理の父親だったが50代で癌が見つかった。ステージ4だった。見つかって半年でこの世を去ってしまった。癌と判明するほんの少し前の夏、庭で一緒に焼き肉を食べていたのだが、その時に喉の不調を訴えていた。まさか癌だったとは思いもよらなかった。それまで身内で癌になった人がいなかったので、本やネットで癌について調べたのはその時が初めてだった。亡くなる少し前に彼女の父親に子どもを預かってもらっていたので、挨拶しようと思ったが捜しても見当たらない。仕方がないので挨拶をしないで帰った。その後電話がかかってきて「挨拶もしないで帰るとは何事だ」と言って叱られたのが最後の言葉だった。最後くらい笑ってお別れしたかったが、最後に会ったのは自宅のベッドで呼吸をしているだけの状態だった。私より背が高くがっちりとした身体はやせ細り、もう骨と皮だけの姿になっていた。私が両手で右手を握ると温かかったが二度と目を開けることはなかった。

お義父さんと呼ばせてもらってから亡くなるまでの15年間、私の子供たちをとても可愛がってくれた。お義父さんは初孫の誕生にとても喜んでいた。特に娘にはメロメロで可愛がってくれたし、息子の誕生をとても喜んだ。なぜならお義父さんには息子がいないからだ。暴走族のリーダーは最期、孫たちにとっては優しくて何でも買ってくれる最高のおじいちゃんだった。65歳、「高齢者」と呼ばれる前に亡くなった。最期まで格好をつけたまま逝ってしまうなんて、彼らしい終わりだった。お義母さんは涙が枯れるまで泣き続けた。昔、看護師であったお義母さんはお義父さんの最期をその腕の中で看取ることができた。私は癌で死ぬのも悪くないと思った。なぜなら癌は余命がわかるから。事故やその他の病気では死に目に会うのは難しい。お義父さんとお義母さんは病院で知り合った。バイク事故で入院し看護師のお義母さんに一目惚れ。純愛だったそうだ。当時の悪友が葬式で話していたのを聞いた。喧嘩の絶えない夫婦で、殴られることもあったお義母さん。とにかく酒が大好きでお義母さんに面倒なことばかりかけていたお義父さん。出会いも別れもベッドの上だった。

妻はそんな義父の性格をそのまま受け継いだのではないかと思うくらいに豪快でわがままである。彼女は活発で中学で一緒にハンドボールをしていた。ショートカットで色黒で当時は私より背が高く頭も良かった。そんな彼女とは中学時代あまり会話をしたことがなかった。私には他に好きな人がいたからだ。中学を卒業して高校に入ってから、その好きな人と付き合うことができた。別々の高校になってお互いハンドボールをやっていたので、毎日練習でデートどころではなかった。市の大会で会うことができたくらいだろうか。次第に気持ちが離れていき、破局を迎えた。一方、今の妻も別の強豪校でハンドボールを続けていたので大会で遠くから見てはいた。しかしその時は全く彼女に興味は湧かなかったのである。じゃあどこで、どのタイミングで付き合うことになるのかはまだ後の話。高校1年のときにハンドボールでレギュラーとなり、先輩たちのおかげと運もあって県大会で優勝し、東北大会で準優勝し全国大会へ出場となった。全国大会では横浜の強豪校と対戦しトリプルスコアをつけられ、初戦で敗退となった。彼女(現在の妻)の方も全国大会に出場した。旅館が一緒で、宴会場で彼女の高校と一緒に朝飯と夕飯を食べた。同じ部活の男子校と女子校の唯一の接点といっても過言ではない。互いに異性の目を気にしながらの食事。その時私は、彼女のひとつ上の先輩が好みのタイプだったので、先輩しか見ていなかった。食事後、タコ部屋で男子どもが雑魚寝しながらやれ覗きに行こうだの、誰が好みかだの男子校生は四六時中、(少なくとも私の周りの男子は)女子のことを考えていて、妄想を膨らませているのである。

彼女(妻)との再開は高校を卒業して、私が1浪し大学に入学をする前の3月だったであろうか。彼女から手紙が届いたのである。当時大流行したプリントシール付きの手紙。女性から手紙が届くなんて小学校の年賀状以来である。今は携帯電話やSNSで好きな相手と直接連絡が取れる。昔は自宅に電話をすると彼女の親やきょうだいが出たあと、本人に繋いでもらっていた。本人が受話器を取ることは事前に約束していた時である。今となっては、あの緊張感を子ども達が味わえないのは少々もったいない気がする。ポケットベルは画期的だった。1年ほど使ってPHSを持つようになり、社会人になって携帯電話を持つようになるのだが、次第に携帯のeメールやショートメッセージへと遷移していく。Windows95が登場した時には興奮した。その時はまだテクノロジーという分野で日本が欧米に飲み込まれていくなんて思いもしなかった。手紙や葉書というアナログなものは次第に廃れていく。ただし、消えはしないだろう。今再びカセットテープやレコードがまた脚光を浴びるように。時代は常に回り巡るのだ。そんな彼女からの手紙に私のハートはすでに撃ち抜かれていたのだ。手紙の内容は覚えていないが彼女の体温が伝わってくるような文面だったことだけを覚えている。

東京で一人暮らし。大学から徒歩3分の場所に部屋を借りた。家賃3万5千円の四畳半。風呂トイレ付き。父親の知り合いのトラック運転手にお願いして、事前に買った冷蔵庫と洗濯機とテレビと布団と電話機を乗せて早朝出発し、昼に到着する。あけぼの荘102号室に搬入しドライバーに謝礼を渡し、見送った。ガスと電気が開通し近くの電気店で買ってきたペンダントライトを取り付ける。和室にぴったりなサイズとデザイン。約7、8万円で電話回線を通した部屋に電話機を繋いで彼女に電話をする。「今、東京に着いたよ。来週の日曜日ヒマだったら遊ぼうよ」と私からアプローチする。渋谷のハチ公前で待ち合わせ。初めてのスクランブル交差点はとても人が多かった。人の流れを計算して進行方向よりもマイナス方向に歩き出す。外国人がこの風景を見たくなるのも分かる気がした。初めての渋谷駅なのにハチ公出口には難なく到着できた。ハチ公の銅像の小ささにはびっくりした。道端で中古の週刊誌を売っていたり、募金箱を持った人がとにかくたくさんいて、1人で座っていたところにお世辞にもきれいとは言えない格好の小柄な女性が募金を求めてきた。財布から100円を取り出して渡した。そこに後ろから彼女が現れ、腕を掴み「怪しい募金だからあっちに行こう」とその場を離れた。渋谷のパルコ、東急ハンズ、ロフトなどで雑貨を見たあと、古着屋巡りをした。2人とも体育会系ということもあり、3本線の入ったジャージが好きだった。トレフォイルのマークが付いた上着を買った。東京はとにかく歩く。めちゃくちゃ足が痛くなったのを覚えている。田舎ではほとんど自転車で行動していたからだ。その後山手線で新宿へ。南口のミロードでパスタ屋に入り、彼女はタラコスパゲティ、私はペペロンチーノを食べた。食べるときに彼女がスプーンとフォークの両方を使って麺をくるくる巻いて食べるのよと教えてくれた。それから「森田一義アワー笑っていいとも」のオープニングでお馴染み、新宿アルタ前を通って資生堂パーラーや西口の京王百貨店で惣菜やスイーツを見たりして夕方になった。初デートということもあり、彼女を東急田園都市線渋谷駅まで見送った。帰宅してから彼女に電話して次は「夢の国」に行こうということになった。

渋谷駅で待ち合わせをして山手線で東京駅へ、そこから京葉線舞浜駅へ降り立った。ゲートには開場前にも関わらずものすごい人の数。売り場でチケットを買い入場した。夢の国。私はどちらかと言うと人に興味がある。昔から高校の部活帰りに駅のミスドやマックに立ち寄り、人間観察をする。もちろん可愛い子には目が行くのだが、それだけではなくて、その人の身に着けている服や靴に興味があった。私自身はファッションセンスが無いので、雑誌で研究したがブランド名を覚えただけでセンスは磨かれなかった。そもそもお金が無かった。夢の国では建築物や花壇が気になった。なぜ夢の国に人は惹きつけられるのか。だから楽しむ余裕はどこにもなかった。そんなこともあって、彼女との会話も何を話せばいいかわからないし、2人の写真を撮ってもらうために赤の他人に声を掛けることなんて、人見知りの私ができるわけがない。こんな調子だから彼女の表情も次第に曇っていき、怒らせてしまい、人の波をどんどんかき分けて行く彼女を見失ってしまった。というか、私は見失いたかったのだ。たぶん。当時は携帯電話がない。あるのはポケットベルのメッセージ機能。「イマドコ?」って送信しても返ってこない。見失って1時間経過した頃、一瞬、遠くで彼女のようなシルエット。慌てて追いかける。近づいていくと間違いなく彼女だった。彼女の左腕を掴み、私が「よかった、見つけた」というと、彼女は安堵の表情をする。外はすっかり暗くなりエレクトリカルパレードを観て、夢の国をあとにした。夢の国での喧嘩で彼女を見つけられなかった場合、結婚することもなかったのではないか。ものすごい人の数の中で彼女を見つけたあの時の自分に感謝しかない。ある時、そのエピソードを子供たちに話したら、2人らしい話だねと笑っていた。その事件の後、彼女が主導権をずっと握ることになるとは、あの時の自分には内緒にしておこう。

結婚して22年が経過しようとしている。仕事の都合で遠距離ふうふになっているが、仕事も順調だし(一時は収入が14万円になったがそれを乗り越え)、上の子はすでにパートナーと同棲中。孫が生まれるのもタイミングと時間の問題か。真ん中は大学生、ブログにも登場したSOS息子だ。彼は私と同じくお笑いとラジオ好き。幼稚園生の時は宇宙飛行士になりたいといい、小学生の時はヒカキンのようになりたいといい、今の夢は作家。末っ子は高校生。私と同じで女の子が大好き。去年彼女ができるもクリスマスを前に振られてしまった。造園業に興味があり、進学に興味はないという。同じように育てたはずだが、こうも性格が違うのかと驚く。例えば好きな食べ物がそれぞれ違う。でも面白いのは私の好きな食べ物が好きということ。これがDNAってやつなのだろうか。わたしも先祖代々何かを受け継いできたのかと思うと震える。家系図を遡っていくと調べられる範囲では、先祖は飛脚をやってたらしい。私も軽貨物とフードデリバリーをやっているので、親戚のおじさんに初めて家系のことを聞いてなんか笑ってしまった。妻のほうも中学の同級生なので、調べていくと遠い親戚らしい。まあそんな事を言ったら、人類みな兄弟のような話になってしまうのだが。3年後、彼女と新婚旅行に行く予定を立てた。ブラック企業で結婚式の前日と翌々日には仕事をしていた。そのため、新婚旅行には行ってない。というわけで、旅行資金として毎月5,000円を積み立てている。今からどこに行こうか考えるのが楽しい。彼女はカニが好きなので美味しいカニをたくさん食べさせたい。北海道か北陸かな。ちなみに私はそれほどでもないが刺し身は好きなので日本酒で一杯やりながら味わいたい。本当は3年前に行く予定だったはずの新婚旅行。いまからワクワクしている。つい最近、彼女が推している男性シンガーのライブが埼玉県の大宮で行われるとのことで、新幹線の東京行き指定席を自由席に変更し、大宮まで一緒に行くことになった。2人っきりで新幹線に乗るのは結婚してから初めてのことだった。

きみとこのまま6

「私はひとりでは生きられない。そう悟って、大学卒業と同時に結婚した」そう言えたのなら、格好はつくのだが、いわゆる授かり婚だ。彼女と付き合って4年目、1泊2日の旅行で、宿泊先の温泉旅館で2人は結ばれた。後先を考えなかった20代前半、その夜、布団の上で彼女と繋がっているときに、私はこの人と生涯を共にするのだな、と確信した。3か月経った頃だろうか、彼女から「妊娠したみたい」と言われた。妊娠を告げられた直後は、結婚がどういうものか、まったく考えていなかった。数週間後、彼女の家族と自分の家族に、彼女が妊娠したことと結婚したい、という旨を報告しに行くこととなった。

報告する当日、スーツに着替え彼女の家に到着する。玄関で挨拶をしたあと彼女の母親に居間へ通される。ホームドラマのように、彼女の父親が座ってテレビを観ている。彼女の父親がテレビを消しこちらに顔を向ける。居間に彼女の姉と祖母も現れ、私たちを見守る。私が「結婚させてください」と言ったら、彼女の父親が「娘を嫁がせるのか、あんたが婿養子に入るのかどっちだ」と訊いてきた。その時は「婿養子には入らないです」と返したが、いま彼女の父親くらいの年齢になって気が付いたのは、彼女の父親なりの冗談だったのではないかということ。彼女の父親は若かりし頃、暴走族のリーダーだった。夜な夜なバイクを乗り回し仲間を引き連れていた過去がある。そのことは結婚してから彼女の父親の姉に聞かされるのだが、硬派だった彼女の父親からすれば、軟派な私をどう思っていたのかは今となっては聞くことができない。それでも彼女の父親とはなんとなく波長が合った。酒が大好きな人だった。私が彼女の実家を訪ねるたびに宴となる。私も酒が好きなので彼女の父親は、プレミアのついた焼酎や清酒を取り寄せては飲ませてくれた。そんな兄のような彼女の父親。義理の父親だったが50代で癌が見つかった。ステージ4だった。見つかって半年でこの世を去ってしまった。癌と判明するほんの少し前の夏、庭で一緒に焼き肉を食べていたのだが、その時に喉の不調を訴えていた。まさか癌だったとは思いもよらなかった。それまで身内で癌になった人がいなかったので、本やネットで癌について調べたのはその時が初めてだった。亡くなる少し前に彼女の父親に子どもを預かってもらっていたので、挨拶しようと思ったが捜しても見当たらない。仕方がないので挨拶をしないで帰った。その後電話がかかってきて「挨拶もしないで帰るとは何事だ」と言って叱られたのが最後の言葉だった。最後くらい笑ってお別れしたかったが、最後に会ったのは自宅のベッドで呼吸をしているだけの状態だった。私より背が高くがっちりとした身体はやせ細り、もう骨と皮だけの姿になっていた。私が両手で右手を握ると温かかったが二度と目を開けることはなかった。

お義父さんと呼ばせてもらってから亡くなるまでの15年間、私の子供たちをとても可愛がってくれた。お義父さんは初孫の誕生にとても喜んでいた。特に娘にはメロメロで可愛がってくれたし、息子の誕生をとても喜んだ。なぜならお義父さんには息子がいないからだ。暴走族のリーダーは最期、孫たちにとっては優しくて何でも買ってくれる最高のおじいちゃんだった。65歳、「高齢者」と呼ばれる前に亡くなった。最期まで格好をつけたまま逝ってしまうなんて、彼らしい終わりだった。お義母さんは涙が枯れるまで泣き続けた。昔、看護師であったお義母さんはお義父さんの最期をその腕の中で看取ることができた。私は癌で死ぬのも悪くないと思った。なぜなら癌は余命がわかるから。事故やその他の病気では死に目に会うのは難しい。お義父さんとお義母さんは病院で知り合った。バイク事故で入院し看護師のお義母さんに一目惚れ。純愛だったそうだ。当時の悪友が葬式で話していたのを聞いた。喧嘩の絶えない夫婦で、殴られることもあったお義母さん。とにかく酒が大好きでお義母さんに面倒なことばかりかけていたお義父さん。出会いも別れもベッドの上だった。

妻はそんな義父の性格をそのまま受け継いだのではないかと思うくらいに豪快でわがままである。彼女は活発で中学で一緒にハンドボールをしていた。ショートカットで色黒で当時は私より背が高く頭も良かった。そんな彼女とは中学時代あまり会話をしたことがなかった。私には他に好きな人がいたからだ。中学を卒業して高校に入ってから、その好きな人と付き合うことができた。別々の高校になってお互いハンドボールをやっていたので、毎日練習でデートどころではなかった。市の大会で会うことができたくらいだろうか。次第に気持ちが離れていき、破局を迎えた。一方、今の妻も別の強豪校でハンドボールを続けていたので大会で遠くから見てはいた。しかしその時は全く彼女に興味は湧かなかったのである。じゃあどこで、どのタイミングで付き合うことになるのかはまだ後の話。高校1年のときにハンドボールでレギュラーとなり、先輩たちのおかげと運もあって県大会で優勝し、東北大会で準優勝し全国大会へ出場となった。全国大会では横浜の強豪校と対戦しトリプルスコアをつけられ、初戦で敗退となった。彼女(現在の妻)の方も全国大会に出場した。旅館が一緒で、宴会場で彼女の高校と一緒に朝飯と夕飯を食べた。同じ部活の男子校と女子校の唯一の接点といっても過言ではない。互いに異性の目を気にしながらの食事。その時私は、彼女のひとつ上の先輩が好みのタイプだったので、先輩しか見ていなかった。食事後、タコ部屋で男子どもが雑魚寝しながらやれ覗きに行こうだの、誰が好みかだの男子校生は四六時中、(少なくとも私の周りの男子は)女子のことを考えていて、妄想を膨らませているのである。

彼女(妻)との再開は高校を卒業して、私が1浪し大学に入学をする前の3月だったであろうか。彼女から手紙が届いたのである。当時大流行したプリントシール付きの手紙。女性から手紙が届くなんて小学校の年賀状以来である。今は携帯電話やSNSで好きな相手と直接連絡が取れる。昔は自宅に電話をすると彼女の親やきょうだいが出たあと、本人に繋いでもらっていた。本人が受話器を取ることは事前に約束していた時である。今となっては、あの緊張感を子ども達が味わえないのは少々もったいない気がする。ポケットベルは画期的だった。1年ほど使ってPHSを持つようになり、社会人になって携帯電話を持つようになるのだが、次第に携帯のeメールやショートメッセージへと遷移していく。Windows95が登場した時には興奮した。その時はまだテクノロジーという分野で日本が欧米に飲み込まれていくなんて思いもしなかった。手紙や葉書というアナログなものは次第に廃れていく。ただし、消えはしないだろう。今再びカセットテープやレコードがまた脚光を浴びるように。時代は常に回り巡るのだ。そんな彼女からの手紙に私のハートはすでに撃ち抜かれていたのだ。手紙の内容は覚えていないが彼女の体温が伝わってくるような文面だったことだけを覚えている。

東京で一人暮らし。大学から徒歩3分の場所に部屋を借りた。家賃3万5千円の四畳半。風呂トイレ付き。父親の知り合いのトラック運転手にお願いして、事前に買った冷蔵庫と洗濯機とテレビと布団と電話機を乗せて早朝出発し、昼に到着する。あけぼの荘102号室に搬入しドライバーに謝礼を渡し、見送った。ガスと電気が開通し近くの電気店で買ってきたペンダントライトを取り付ける。和室にぴったりなサイズとデザイン。約7、8万円で電話回線を通した部屋に電話機を繋いで彼女に電話をする。「今、東京に着いたよ。来週の日曜日ヒマだったら遊ぼうよ」と私からアプローチする。渋谷のハチ公前で待ち合わせ。初めてのスクランブル交差点はとても人が多かった。人の流れを計算して進行方向よりもマイナス方向に歩き出す。外国人がこの風景を見たくなるのも分かる気がした。初めての渋谷駅なのにハチ公出口には難なく到着できた。ハチ公の銅像の小ささにはびっくりした。道端で中古の週刊誌を売っていたり、募金箱を持った人がとにかくたくさんいて、1人で座っていたところにお世辞にもきれいとは言えない格好の小柄な女性が募金を求めてきた。財布から100円を取り出して渡した。そこに後ろから彼女が現れ、腕を掴み「怪しい募金だからあっちに行こう」とその場を離れた。渋谷のパルコ、東急ハンズ、ロフトなどで雑貨を見たあと、古着屋巡りをした。2人とも体育会系ということもあり、3本線の入ったジャージが好きだった。トレフォイルのマークが付いた上着を買った。東京はとにかく歩く。めちゃくちゃ足が痛くなったのを覚えている。田舎ではほとんど自転車で行動していたからだ。その後山手線で新宿へ。南口のミロードでパスタ屋に入り、彼女はタラコスパゲティ、私はペペロンチーノを食べた。食べるときに彼女がスプーンとフォークの両方を使って麺をくるくる巻いて食べるのよと教えてくれた。それから「森田一義アワー笑っていいとも」のオープニングでお馴染み、新宿アルタ前を通って資生堂パーラーや西口の京王百貨店で惣菜やスイーツを見たりして夕方になった。初デートということもあり、彼女を東急田園都市線渋谷駅まで見送った。帰宅してから彼女に電話して次は「夢の国」に行こうということになった。

渋谷駅で待ち合わせをして山手線で東京駅へ、そこから京葉線舞浜駅へ降り立った。ゲートには開場前にも関わらずものすごい人の数。売り場でチケットを買い入場した。夢の国。私はどちらかと言うと人に興味がある。昔から高校の部活帰りに駅のミスドやマックに立ち寄り、人間観察をする。もちろん可愛い子には目が行くのだが、それだけではなくて、その人の身に着けている服や靴に興味があった。私自身はファッションセンスが無いので、雑誌で研究したがブランド名を覚えただけでセンスは磨かれなかった。そもそもお金が無かった。夢の国では建築物や花壇が気になった。なぜ夢の国に人は惹きつけられるのか。だから楽しむ余裕はどこにもなかった。そんなこともあって、彼女との会話も何を話せばいいかわからないし、2人の写真を撮ってもらうために赤の他人に声を掛けることなんて、人見知りの私ができるわけがない。こんな調子だから彼女の表情も次第に曇っていき、怒らせてしまい、人の波をどんどんかき分けて行く彼女を見失ってしまった。というか、私は見失いたかったのだ。たぶん。当時は携帯電話がない。あるのはポケットベルのメッセージ機能。「イマドコ?」って送信しても返ってこない。見失って1時間経過した頃、一瞬、遠くで彼女のようなシルエット。慌てて追いかける。近づいていくと間違いなく彼女だった。彼女の左腕を掴み、私が「よかった、見つけた」というと、彼女は安堵の表情をする。外はすっかり暗くなりエレクトリカルパレードを観て、夢の国をあとにした。夢の国での喧嘩で彼女を見つけられなかった場合、結婚することもなかったのではないか。ものすごい人の数の中で彼女を見つけたあの時の自分に感謝しかない。ある時、そのエピソードを子供たちに話したら、2人らしい話だねと笑っていた。その事件の後、彼女が主導権をずっと握ることになるとは、あの時の自分には内緒にしておこう。