あにろっくのブログ

誰かの明日への生きる力になれたらと思います。いやまじめか!

鬱と私。

学生時代は楽しかった。厳しい部活動や先輩からの暴力もなんとか耐え抜いた。大学も貧乏なりに学生生活を満喫した方だと言える。しかしながら、社会人になって生活は一変した。大学4年で就職活動をはじめるときには、世はまさに就職氷河期。付き合っていた彼女と卒業間近になって妊娠が判明。4月に就職すると同時に結婚式の準備に追われる。2ヶ月後には会社で必須の資格試験が待ち構えており、毎日寝る間を惜しんで勉強した。なんとか合格して翌月の結婚式と披露宴も終わり、親戚へのご挨拶も済ませた頃には身も心もくたくただった。それでも生まれてくる子どものため、上司のパワハラモラハラ(当時はそんな言葉は無い)を耐え抜いて。3年頑張った。その頃から体調が思わしくない。毎日会社に行きたくない気持ちがあった。時間があれば本を読み漁り、1冊の本と出合いえ、漠然と営業の仕事がしたくなった。会社に退職の意を伝えると、引き留められ、希望の部署はあるかと聞かれたので、営業の仕事がしたいと伝えた。そこから営業の仕事も兼務した。営業の仕事は毎日新鮮で、自分の性格に合っていた。そこから10年働き続けた。たくさん資格も取得してベテランになり、中間管理職まで行ったときに、自分がミスを連発した。それまで疲労とストレスで精神的にギリギリで仕事をしていたのと、そこに部下のミスも相まってひどく気分が落ち込んでしまった。それからは毎日が辛く、誰とも話したくなかった。なので、子どもが3人いてまだまだお金が必要なのに会社を辞めた。次の会社は主に鉄工所や建設会社のルート営業に就いた。結論から言うと3年でやめた。上司と社長のパワハラサービス残業、職場内の窃盗などとにかく安心して働けなかった。それでも3年働くことができたのは、家族と同僚と取引先のお客様のおかげ。この会社ではじめて朝まで眠れなくなり、体が起きないという体験をした。

楽天1位の最強の光目覚まし時計とは

妻から会社に休みの電話をしてもらったら、数時間後には回復していつもの調子に戻った。ここでの仕事は出先が車で1時間半、なので午前6時半には出発し、帰社して18:30。そこから会議と残務処理、見積書を送って日報を書き終わると、21:00。会社の鍵を持たされていたので、深夜2:00に帰ることなんてのも珍しくなかった。それでも自分を責めて、責め続けて次第にタバコや酒の量が増え、些細なことでイライラし、妻とのケンカ、上司とケンカどん底まで突き進んだのであった。それでも死ぬことまでは考えなかった。どうせ寿命が来て死ぬのだから、死を選択するということは昔からなかった。今もこれからも貧乏性なのだ。それゆえ、精神状態が安定しなかった。辞めた後また最初の職場に戻してもらった。前職の資格が生きたのと社長の思惑が合致したからだ。またそこで5年働いたがやはり元部下が私の上司となり、またそいつも私があまり信用ならない人物だったこともあり、衝突したこと、職場内での盗難2件、そのための更衣室の防犯カメラ設置という流れがなんだか気持ち悪くなって、辞めることにしたその後、重機を操縦する免許を持っていたことと、操縦が好きだったので建設会社に就職した。手取り21万円その時すでに43歳。はたから見ればこいつの人生積んでるな、だ。しかしながら3ヶ月くらいで測量と受注するための見積もりを憶えた。土工仕事が終わったら、また2級土木施工管理技士の資格取得のために(結果、仙台で受験し合格)勉強した。しかしながらそこでも、入社当初は優しかった従業員も1ヶ月も一緒に働くと仕事ができない私に対して先輩社員や代表が怒鳴ったり、嫌味を言ってくるようになったので、1年で辞めた。どの仕事もやりがいがあり自分を成長させてくれる内容だった。やはり、仕事は人間関係がすべてだ。何をやるかよりも「誰とやるか」だと私は思う。きっと私が生意気なのだろう。そんなこんなで今に至る。今の私は軽貨物ドライバーとフードデリバリーをしている。休みはほぼ無いが、自由に休んで自由に働いている。以前よりも収入は増えた。しかしながらお金はない。でも夢があり、希望がある。やりたいことがたくさんある。外国にも行ってみたい。欲張りなのだ。私は天気が悪かったり、寒かったり、光が少ないと気持ちが沈むような気がする。そのくせ、眩しい光は苦手だ。鬱な気分と上手につきあうには自分に気持ちに素直になり、許すことだ。あるがままの自分、これでいいのだ。